王仙芝|黄巣と並ぶ唐末の農民反乱指導者

王仙芝

王仙芝は唐末の農民反乱指導者で、塩の密売網を基盤に各地で蜂起し、のちに長安を陥落させた黄巣の大反乱へと連なる初期段階を主導した人物である。乾符年間(9世紀後半)、財政難と流通の停滞、塩の専売と苛斂誅求に対する不満が爆発するなかで台頭し、山東・河南・淮南の境域を機動的に転戦して勢力を拡大した。彼の死後、その残党と社会不安は黄巣の挙兵に収斂し、唐王朝の解体的危機を決定的にした点で、王仙芝の蜂起は歴史上の転換点として評価される。

出自と時代背景

唐は安史の乱以後、節度使の自立化が進み、地方軍事政権の割拠(藩鎮)が常態化した。財政面では楊炎が導入した両税法が普及する一方、地租徴収の偏在や課税基盤の流動化により、実収は安定せず、流通課税や専売収入への依存が強まった。なかでも塩は国家歳入の柱で、専売体制(塩専売制)の弊害から密売が横行し、社会に地下経済が広がった。紙券による遠隔送金の普及(飛銭)は交易を活性化させたが、市場()の物価高騰と人々の困窮は深刻であった。こうした構造的要因が積み重なり、王仙芝のような「塩幇」出身の武装集団が民心を糾合する土壌が形成された。

挙兵と勢力拡大

王仙芝は飢饉と徴税の強化を機に、塩密売の結社を母体として挙兵した。初動は小規模な打ちこわしや倉庫襲撃であったが、交易路の掌握と市場支配に長け、糧食・資金・人員を素早く集めた。徴発と分配を織り交ぜ、被支配層に「不公平な徴税や専売への対抗」を訴える宣伝を行った点は、既存の盗賊的蜂起と異なる政治性を帯びていた。各地の官衙・県城を短期占領しては撤退する機動戦を用い、唐側の追撃を空転させる一方、周縁地域で兵站を回復しつつ勢力圏を拡張した。

黄巣との同盟と分裂

蜂起の初期段階で、王仙芝は同じく塩商系の黄巣と合流し、共同作戦で官軍を相次いで破った。だが、戦略や主導権をめぐる不一致から両者はやがて分裂し、王仙芝は独自に転戦を続けることとなった。唐廷は武力鎮圧と恩赦・招撫を併用し、彼に官職付与や帰順を示唆して瓦解を誘ったと伝えられるが、局地的優位と包囲の強化が併走するなかで情勢は流動した。最終的に王仙芝は官軍の討伐で戦死し、その残余勢力と不満は黄巣の旗の下に再結集、のちの黄巣の乱が全面化していく。

組織と戦術の特徴

王仙芝の隊伍は、平時は交易・運搬に従事し得る機動的な歩騎混成で、戦時には軽装で各地を急襲する可塑性をもった。徴発は掠奪一辺倒ではなく、市場での売買・課金と村落での割当を併用し、占領地では臨時の徴税や関所の設置を行った。塩の流通路・倉場・渡河点など物流の要衝を押さえることで、短期占領でも実利を確保できたことが長期の遊撃を可能にした。こうした運用は、専売と課税に歪んだ流通構造そのものを逆手に取ったものでもあった。

唐朝の対応と軍事的帰趨

唐廷は節度使を軸に諸道の兵を動員し、同時に帰順者への恩賞や官職授与を掲げて離反を誘った。だが、安史の乱後に肥大化した藩鎮の利害は統一的行動を阻み、各鎮の合従連衡は討伐戦線を断続させた。王仙芝の戦死で一旦の峠は越えたものの、根源的な社会矛盾は解消されず、より大規模で破壊的な黄巣の挙兵が続いた。黄巣は遂に長安を占領して斉を称し、唐は国家中枢の空洞化を露呈するに至った。

歴史的意義と評価

王仙芝の蜂起は、民衆が「塩」と「税」をめぐる国家的仕組みに対して抱いた不信と、分権化した軍事秩序のほころびが結びついて噴出した社会運動であった。楊炎の政策として知られる両税法は制度史上の画期であるが、実施の地域差や藩鎮の自立、流通の歪み(塩専売制の硬直や飛銭の偏在)によって負担は末端に集中した。安禄山・史思明の反乱に象徴される構造危機(安禄山史思明)の「第二幕」として位置づける見解もあり、王仙芝は黄巣の前史にとどまらず、唐末社会の臨界点を示した指標として理解される。

名称の混同に注意

同音の著名人として東晋の書家・王献之がいるが、王仙芝とは別人であり、活動時代も性格も全く異なる。王献之は貴族文化の文人であるのに対し、王仙芝は唐末の社会矛盾の中から生まれた反乱の指導者である点を明確に区別する必要がある。