常勝軍|清朝の西洋式精鋭部隊

常勝軍

常勝軍は、清末の内戦期に江蘇・浙江一帯で活動した洋式軍隊であり、欧米人の軍事指導のもとで編成された中国人部隊である。英語では「Ever Victorious Army」と呼ばれ、太平天国の乱の最終段階において、上海や蘇州周辺の防衛・奪回に大きな役割を果たした。従来の八旗軍や緑営が弱体化するなか、湘軍や淮軍と並んで清朝側の有力な戦力とみなされ、後の軍制改革や洋務運動にも影響を与えた部隊である。

成立の背景

常勝軍が成立した背景には、19世紀中頃の清朝の軍事的危機があった。朝はアヘン戦争以降、対外戦争と各地の反乱に苦しみ、とくに長江流域で拡大した太平天国の乱は国家の存立を脅かした。首都防衛を担う八旗軍や各地の緑営は腐敗と士気低下により、反乱軍に連敗を重ねたため、朝廷は地方紳士や郷紳に頼り、曾国藩の湘勇・湘軍、李鴻章淮軍といった郷勇・団練を基礎とする新たな軍事力を組織した。同時に、条約港を通じて中国市場に進出していたイギリスやフランスなどの列強は、上海など沿海の通商拠点を守るため清朝側を支援し、洋式武器と軍事顧問を提供した。このような内外の事情が結びつき、条約港防衛を目的とする半ば私設の洋式部隊として常勝軍が生まれたのである。

編制と指揮官

常勝軍は、名目上は清朝の一部隊でありながら、実際には外国人指揮官と中国人兵士から成る混成軍であった。初期に組織を整えたのはアメリカ人のフレデリック・タウンゼント・ウォードであり、彼は上海周辺の治安維持のために民間資金をもとに部隊を創設し、反乱軍に対して積極的に出撃した。ウォードの戦死後、部隊は一時混乱したが、やがてイギリス陸軍将校であったチャールズ・ゴードンが指揮を引き継ぐ。彼は後に「ゴードン将軍」「中国のゴードン」と呼ばれ、規律の確立と戦術の統一に努めた。兵士の多くは江蘇・浙江出身の中国人であり、高い給与と戦功に応じた褒賞によって戦意を維持した点も従来の清軍と異なっていた。

装備・訓練と戦術

常勝軍の特徴は、洋式の装備と訓練を採用した点にあった。武器にはライフル銃や近代的な野砲が用いられ、砲兵・歩兵・工兵の分業がなされていた。部隊は欧米式の歩兵操典にもとづく隊列運動や射撃訓練を受け、号令体系や行軍隊形も西洋式に整えられた。ゴードンら外国人将校は、火力優位と機動力を強調し、狭い城門や塹壕線に対して砲撃で突破口を開き、突撃部隊を投入する戦術を活用した。また、情報収集や地形偵察にも注意が払われ、従来の清軍が経験と勇気に頼ることが多かったのに比べ、より計画的な作戦運用が試みられた。

太平天国の乱における役割

常勝軍は、その規模自体は数千人規模にとどまったが、戦略的に重要な地域に投入されることで、太平天国の乱終盤の戦局に大きな影響を与えた。上海周辺の防衛戦では、条約港と外国人居留地を守ることが最優先とされ、常勝軍は城外に築かれた反乱軍の陣地や砦を逐次攻撃して排除した。その後、蘇州・常州など江蘇南部の都市攻略でも活躍し、しばしば曾国藩や李鴻章の率いる郷勇・団練部隊と協同した。こうした勝利の積み重ねによって「常に勝つ軍隊」という名が広まり、清朝側の士気を高める一方、太平天国側には心理的打撃を与えたといわれる。

清朝軍制と洋務運動への影響

常勝軍の経験は、清末の軍制改革に一定の示唆を与えた。まず、洋式装備と訓練の有効性が実戦によって示され、李鴻章らは淮軍の一部に洋式銃砲と教練を導入していく。また、砲台・造船所・兵工廠の建設など、軍事面から始まる近代化政策は、のちの洋務運動へと連なった。他方で、常勝軍は外国人指揮官への依存が大きく、主権の観点からは問題視される側面もあった。そのため、清朝は最終的に部隊を解散させ、得られた経験をもとに自前の近代的常備軍を整備しようとしたのである。

評価と歴史的意義

常勝軍は、規模においては湘軍や淮軍ほど大きくなかったが、条約港防衛と近代戦術の実験場として重要な意味をもつ。郷勇・団練に依拠した郷勇的軍隊と、西洋式正規軍の中間に位置する存在として、清末中国の軍事近代化の過渡的段階を象徴しているといえる。その存在は、列強との不平等な関係を背景にしていたため、半植民地化の象徴として批判的に語られる一方、従来の軍事構造を揺さぶり、新たな軍制構想を促した契機としても評価されている。こうして常勝軍は、単なる一時的な私設軍事組織を超え、清末中国の国家と軍隊のあり方をめぐる歴史的転換点の一つとして位置づけられている。