大ブリテン王国|スコットランド併合で誕生

大ブリテン王国

大ブリテン王国は、1707年にイングランド王国とスコットランド王国が合同して成立した国家であり、1801年にアイルランドと連合王国を形成するまで続いた近世ヨーロッパ世界の主要強国である。合同は単なる同君連合ではなく、議会・国制・経済を統合する試みであり、のちのイギリスの政治文化や帝国支配の枠組みを決定づけた点で重要である。

成立の背景と1707年合同法

大ブリテン王国成立の直接の契機となったのは、1688年の名誉革命後に確立された新しい王権観と安全保障上の要請である。名誉革命により王権は制限され、権利の章典寛容法によって議会主権と宗教的寛容が制度化された。イングランド側は、対フランス戦争や海外植民地経営を進めるうえで、北方のスコットランドを確実に同盟圏に組み込む必要があった。他方、経済的に脆弱だったスコットランドは、イングランド市場や海外貿易への参入を求め、1707年の合同法により両国は単一の王国として統合され、ロンドンに一本化された議会のもとで新国家が出発したのである。

立憲君主政と議会政治

大ブリテン王国の政治体制は、王権を法と議会によって拘束する立憲君主政であり、その中核に下院優位の議会と内閣制度が置かれた。名誉革命以後、国王は政策決定の主導権を徐々に失い、議会多数派の支持を受ける人物が首相として内閣を率いる慣行が形成された。議会内部ではホイッグとトーリという政党が勢力を競い、18世紀を通じて近代的な政党政治が発展した。この体制のもとで財政・海軍・植民地行政が整備され、国家は戦費調達と長期戦を遂行できる強靭な構造を獲得したのである。

  • 国王は名目上の元首として存在しつつ、議会多数派との協調を求められる立場となった。
  • 議会は租税・軍事・外交など重要政策を決定する最高機関として機能した。
  • 内閣は国王の諮問機関から、実質的に行政を統括する最高執行機関へと変容した。

対外政策と帝国拡大

大ブリテン王国は成立と同時に、海上覇権と植民地支配を軸とする大国として台頭した。スペイン継承戦争や七年戦争ではフランスと激しく争い、北アメリカやインドで優位を築いた。とりわけ海軍力と財政力の充実は、広大な植民地の獲得と維持を可能にし、通商と植民地支配から得られる富は本国経済を潤した。他方で、北アメリカ植民地との緊張はやがて独立戦争へと発展し、13植民地の喪失という大きな挫折も経験したが、それでもカリブ海・インド・アフリカとの貿易は続き、帝国としての性格はいっそう強まっていった。

社会・経済の変容と産業化の胎動

大ブリテン王国の時代には、農業生産の向上や囲い込み運動、都市への人口集中が進み、市場経済が拡大した。大西洋三角貿易や植民地貿易によって商業資本が蓄積され、綿工業など軽工業を中心に工場生産への移行が始まる。これらの変化はのちの産業革命を準備するものであり、金融市場の発展、公債制度、保険・銀行業の発達なども含め、近代資本主義経済の基礎がこの時期に整えられた。

アイルランドとの関係と連合王国への移行

18世紀後半、大ブリテン王国はカトリック教徒が多いアイルランドに対して支配と統合を進め、1798年の反乱を経て、1801年に合同法が制定される。これによりアイルランド王国は廃され、ロンドンの議会に統合されて「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」が成立し、大ブリテン王国としての国家名称は終わりを迎えた。しかし、立憲体制や議会政治、帝国統治の仕組みなど、この時期に形成された諸制度は、その後のイギリス史を通じて連続的に受け継がれていくことになった。