光復会
光復会は、清朝末期の中国で結成された秘密結社的な革命団体であり、民族革命を掲げて満州族王朝である清を打倒し、漢民族による国家の「光復」をめざした組織である。清末の政治的混乱と列強の侵略が進むなかで、江南地方を中心とする知識人・学生・軍人が参加し、のちに孫文が主導する中国同盟会とも連携しつつ、辛亥革命前後の武装蜂起や宣伝活動に大きな役割を果たした。
成立の背景
光復会の成立背景には、清朝末期の深刻な国内危機と対外危機があった。アヘン戦争以来、清は列強との不平等条約を重ね、領土割譲や租界の拡大など主権侵害が続いた。さらに、洋務運動や戊戌の変法といった改革が十分に成果を上げられず、保守派官僚の抵抗によって挫折したことから、漸進的改革に失望した知識人の一部が急進的な革命路線へと傾斜していった。
こうしたなかで、伝統的エリートである科挙官僚層の一部や留学生、新聞・出版に関わる文化人が新たな拠点となり、密かに清朝打倒をめざす団体が各地で結成された。広州を拠点とした興中会や、長江流域の秘密結社などと並び、江南の都市社会から生まれたのが光復会であった。
創設とメンバー
光復会は、清朝末期の知識人・教育者を中心に結成されたとされ、とくに浙江省出身の人物が多かった。近代的学堂や日本留学を通じて新しい学問と民族主義思想に触れた彼らは、旧来の科挙と儒教道徳に依拠する支配秩序を旧弊とみなし、清朝を打倒して新しい国民国家を築くべきだと主張した。
メンバーには、教育界・出版界・軍人・学生など都市の中間層が多く、彼らは新聞の発刊や演説会・講談会などを通じて民衆に革命思想を広めた。地方の郷紳・商人とも結びつき、資金や隠れ家の提供を受けることで、秘密結社としての組織基盤を強化していった。
思想と綱領
光復会の中心的なスローガンは、「満州王朝の打倒」と「漢民族国家の再建」であり、ここから「光復」という語が用いられた。これは、異民族王朝である清を排除し、漢民族主体の国家を「取り戻す」という意味合いをもつ。民族主義的性格が強く、列強による半植民地化と満州王朝の支配を一体の問題として批判した点に特徴がある。
一方で、政治体制については、君主制を限定的に残しつつ憲法によって権力を制約する立憲君主制構想と、君主制そのものを廃して共和制を樹立する構想の両方が議論された。最終的には、他の革命団体と同様、共和政体を志向する傾向が強まり、のちの辛亥革命で実現する中華民国の樹立と方向性を共有するに至った。
活動形態と武装蜂起
光復会は、秘密結社的な組織として、密会・誓約・階梯的な指揮系統を備えていた。メンバーは地方ごとに支部や分会を組織し、軍事訓練を受けた者や新式軍隊の将兵を取り込むことで、武装蜂起の準備を進めた。武器資金の調達には、華商・海外華僑とのネットワークも活用された。
- 都市部での政治宣伝・ビラ配布・新聞発行
- 軍隊・警察への浸透と軍人メンバーの獲得
- 地方蜂起や暗殺計画の立案・指導
これらの活動は清朝官憲から厳しく弾圧され、多くのメンバーが逮捕・処刑されたが、それによってかえって民衆の同情と支持を集め、革命運動の正当性を訴える宣伝効果も生まれた。
中国同盟会との関係
光復会は、海外を拠点に活動した孫文の中国同盟会と密接に関係した。1905年に日本で結成された中国同盟会は、「民族」「民権」「民生」を綱領とする全国レベルの革命組織であり、多くの地方団体や秘密結社を糾合する役割を果たした。
この過程で光復会のメンバーも同盟会へ参加し、組織上の統合や二重加盟が進んだが、指導権や路線をめぐる意見対立も生じた。それでも、地方蜂起や武装闘争の現場では、両者はしばしば協力し、長江下流域や華中・華南の各地で清朝支配への打撃を与えた。
辛亥革命と光復運動
1911年の辛亥革命は、武昌起義を端緒として各省の独立宣言と「光復」を連鎖的に引き起こした。江南・華中の諸都市では、旧来から活動していた光復会系の革命家が軍や地方官僚との交渉を主導し、比較的短期間で清朝からの離脱と新政府樹立を実現した地域も多かった。
この「光復」という表現は、清朝からの解放だけでなく、列強に奪われた主権や民族的尊厳を取り戻す象徴として用いられた。そのため、地方政府や新聞は「某省光復」「某城光復」といった表現を多用し、光復会の名称と理念が時代を象徴するキーワードとなった。
辛亥革命後の展開と評価
中華民国が成立すると、旧来の秘密結社としての光復会は、公式な政党や軍閥政治のなかに吸収され、独立した組織としては次第に影を薄めていった。指導者の一部は新政府の官僚や軍人、地方政治家として活動を続けたが、軍閥割拠や政治混乱の中で暗殺や失脚に追い込まれる者も多かった。
しかし、近代中国史研究において光復会は、興中会や中国同盟会と並ぶ重要な革命団体として位置づけられている。とくに、江南の知識人を基盤とする民族革命運動を組織化し、辛亥革命の「地方からの爆発」を準備した点で大きな意味をもつ。また、科挙廃止後の新教育制度や留学生層が革命運動の担い手となったことを示す事例として、科挙制度の崩壊と近代政治運動との関連を理解するうえでも、光復会の存在は重要である。