会津三方道路|明治初期の近代化を象徴する難事業

会津三方道路

会津三方道路とは、明治時代初期、福島県令の職にあった三島通庸によって進められた、会津若松を起点に山形、新潟、栃木の三方向へ伸びる幹線道路の改修・開削事業の総称である。この事業は、福島県の近代化を推進するための基盤整備として位置づけられたが、その強引な手法や過重な負担が地元住民や政治活動家の激しい反発を招き、後に自由民権運動史に深く刻まれる激突へと発展した。

事業の背景と三島通庸の着任

明治15年(1882年)、山形県令として「土木県令」の異名を馳せていた三島通庸が福島県令に転じることとなった。当時の福島県は、交通網の整備が遅れており、特に険しい山々に囲まれた会津地方の物流は、江戸時代以来の旧態依然とした街道に依存していた。三島は、広域的な経済圏の確立と、政府の権威を地方に浸透させることを目的として、着任早々に大規模な道路建設プロジェクトを打ち出した。これが会津三方道路計画である。三島は、単なる道づくりにとどまらず、山形・新潟・栃木という隣県とのネットワークを強化することで、東北地方の産業構造を一変させるという壮大なビジョンを描いていた。

計画された三つの路線とその概要

会津三方道路は、その名の通り会津若松を中心に放射状に広がる三つの主要ルートから構成されていた。それぞれの路線は、地理的な障壁を克服するために、当時の最新技術を駆使した難工事を伴うものであった。

  • 山形線(米沢街道):会津若松から山形県米沢へと続くルートである。三島が以前に治めていた山形県との連携を重視し、奥羽地方の南北のつながりを強化することを目的としていた。
  • 新潟線(越後街道):会津から西の新潟県へと向かうルートである。日本海側の物資を効率的に内陸へと運び込むための物流の動脈として期待された。
  • 栃木線(下野街道):南の栃木県へと繋がるルートで、当時の東京方面への主要なアクセスルートとしての役割を担っていた。この道は、後の国道121号線などの基礎となっている。

これらの工事には、従来の徒歩による移動だけでなく、馬車が通行可能な勾配と道幅を確保することが求められた。特に県境の峠越え区間では、大規模なトンネル掘削や橋梁の架設が必要となり、多額の資金と膨大な労働力が投入された。

過酷な労働徴発と資金調達の強行

会津三方道路の建設を進めるにあたり、三島は極めて強引な資金調達と労働力の動員を行った。彼は「夫役(ぶやく)」と呼ばれる賦役を復活させ、沿道の農民たちに対して、年間数日間にわたる無償の労働奉仕を命じた。もし労働を提供できない場合は、代金として多額の金銭を納めることが義務付けられた。

当時の農村は、明治時代初期の地租改正による重税に加え、松方財政による深刻なデフレ不況の直中にあった。生活に困窮する農民にとって、農繁期をも無視して行われる道路工事への動員は、文字通り死活問題であった。三島は「進まぬ者は反逆者」という冷徹な態度を崩さず、反対する町村長を次々と罷免し、警察力を背景に強制的に工事を継続させた。この専制的な手法は、地域社会に深い怨嗟の声を蓄積させる結果となった。

自由民権運動との衝突と福島事件

三島の独裁的な行政運営に対し、真っ向から反対を唱えたのが、河野広中ら率いる福島県会や自由党の活動家たちであった。彼らは、県議会での議決を無視して独断で予算を執行する三島の姿勢を「違憲・違法」であると厳しく批判した。会津三方道路の建設問題は、単なる土木事業の是非を超え、民衆の権利と官憲の権力、ひいては自由主義と専制主義の戦いという政治的対立へと昇華した。

明治15年後半、反対運動は激化し、各地で抗議集会や嘆願が行われた。これに対して三島は、反対派を一掃するために「朝敵」としてのレッテルを貼り、徹底的な弾圧に乗り出した。これが、いわゆる福島事件である。河野広中をはじめとする主要メンバーは「転覆を企てた」として次々と検挙され、運動は壊滅的な打撃を受けた。

喜多方事件の波及

福島事件に連動する形で、会津地方北部の喜多方でも激しい抵抗が起こった。これを喜多方事件と呼ぶ。会津三方道路建設による重負担に耐えかねた農民数千人が、弾圧された指導者の釈放と不当な徴収の停止を求めて決起したが、軍隊や警察の介入によって鎮圧された。この一連の騒乱は、当時の日本全国に衝撃を与え、政府による自由党員への弾圧が全国規模で激化するきっかけの一つとなった。

土木技術における成果と歴史的意義

政治的・社会的な混乱を伴いながらも、会津三方道路は突貫工事の末、わずか数年で完成を見た。工事を統括した内務省の技術者たちは、当時の最先端技術を用いて、万世大路の栗子山隧道などの難所に挑んだ。完成した道路は、それまで困難を極めた山岳地帯の輸送効率を飛躍的に向上させた。

完成式典において三島は、自らの功績を誇示した。実際に、この道路網が整備されたことで、会津地方は孤立から脱し、産業の近代化に向けた第一歩を踏み出したことは事実である。しかし、その背後には数多くの犠牲と、民意を切り捨てた強権政治の傷跡が残された。歴史家たちは、会津三方道路を「近代日本の開発の光と影」を象徴する出来事として評価している。

道路網の変遷と現在への継承

会津三方道路として整備された各路線は、その後、大正から昭和にかけて国道へと格上げされ、東北地方の基幹インフラとして機能し続けた。モータリゼーションの進展に伴い、当初のルートは多くがトンネル化やバイパス化によって姿を変えたが、現在でも主要な交通路として利用されている。

一方で、三島通庸が拓いた旧道の一部は、現在でも「万世大路」や旧街道の遺構として各地に残されており、当時の過酷な工事の様子を今に伝えている。これらの遺構は、単なる交通の歴史としてだけでなく、明治政府がどのようにして地方を掌握し、近代国家の体裁を整えていったかを考察する上で、極めて重要な歴史資料となっている。会津地方の豊かな自然の中に残る石組みの橋やトンネルは、日本の近代化が民衆の大きな代償の上に成り立っていたことを静かに物語っている。