三藩の乱
三藩の乱は、清初の1673年から1681年にかけて華南・西南で勃発した大規模内戦である。明末以来の功臣である呉三桂・尚可喜・耿精忠が、それぞれ雲南・広東・福建に半独立的な藩鎮として割拠し、清朝の財政・軍政を圧迫していた。康煕帝は藩王の撤藩方針を打ち出し、これに反発した呉三桂らが挙兵して全国戦争へ拡大した。戦争は八年に及び、最終的に清廷が勝利して藩鎮体制を廃し、中央集権化を大きく進めた点で、中国近世国家形成の転機となった事件である。
背景―三藩体制の成立
清朝は入関直後、降将や功臣を重用しつつ地方統治を安定させた。とくに呉三桂は雲南・貴州、尚可喜は広東、耿精忠は福建を拠点として巨大な軍事・徴税権限を握った。これは明末の軍閥化が清初に持ち越された形であり、朝廷の租税収入を吸い上げる「国中の国」と化していた。順治年間の混乱収拾後も、藩鎮の軍費・俸給は歳入を圧迫し、朝廷は恒常的赤字に悩まされた。
発端―撤藩と挙兵(1673–1675)
1673年、撤藩の意向を示した朝廷に対し、呉三桂は辞任を願い出て反応を探り、やがて反旗を翻した。これに福建の耿精忠、広東の尚之信(尚可喜の子)が連動し、南中国一帯が戦場化した。初期には呉軍が長江中下流まで進出し、湖広・四川に波及するなど、清軍は守勢を強いられた。
戦局の拡大と転機(1676–1678)
1676年以降、清廷は八旗と緑営を再編し、満漢協力の体制で反攻に転じた。福建では耿精忠が離反し、広東でも内部分裂が生じ、呉三桂の連合は綻びた。1678年、呉三桂は衡州で「周」皇帝を称したが、その直後に病没し、軍の求心力は低下した。
「周」称帝の意義
呉三桂の称帝は、明の正統を継ぐ新王朝を標榜して反清の大義を掲げ直す試みであった。しかし在地エリートの支持は限定的で、糧秣確保や軍紀維持も困難となり、広域支配の制度設計には至らなかった。
終結―統一と撤藩の完了(1679–1681)
呉三桂死後、孫の呉世璠が抵抗を継いだが、清軍の持久・迂回作戦により雲南・貴州は次第に包囲された。1681年、昆明が陥落して戦争は終結し、藩鎮は正式に廃止された。これにより地方軍権は朝廷直轄となり、州県レベルまでの官制運用が再整備された。
政策的帰結と国家形成
第一に、財政面では軍費の集中管理と銭糧の直収化が進み、歳入構造の正常化が図られた。第二に、軍政面では八旗・緑営の再編により常備軍の配置が見直され、辺境と内地の兵力バランスが均衡化した。第三に、人事面では満漢協働原則が強化され、地方長官への統制が強まった。これらは清朝の長期安定に資する制度的基盤となった。
華南・海域秩序との連動
戦乱期、台湾の鄭氏勢力は福建沿岸に出兵して情勢を攪乱した。清廷は沿海住民の強制移住である遷界令を発し、兵站遮断を図ったが、沿岸経済には深刻な打撃を与えた。のちに鄭氏が降伏・帰順すると、海禁は段階的に緩和され、華南の交易秩序は回復へ向かった(鄭氏台湾、鄭成功参照)。
地域社会への影響
西南では軍事動員と再征税で農村の人口移動が加速し、屯田・墾田による再生産が進んだ。華南の都市では工業・商業の一時的停滞と復興が交錯し、江南財政の再編成が地方エリートの勢力図を塗り替えた。こうした変化は、清代中期の繁栄の前提を整える結果となった。
位置づけと評価
三藩の乱は、明末の群雄割拠を清初が最終的に清算し、地方武装勢力を国家の常備軍制に包摂した過程として理解される。李自成の動乱から続く長期的な内戦の連鎖は、ここで制度的に終止符が打たれたと言える(李自成の乱参照)。撤藩後に確立した統治枠組みは、皇帝権力と官僚制の均衡を基調に、地方統治の標準化を進め、18世紀の安定支配へとつながった(清朝の統治、順治帝、呉三桂、康煕帝も併読されたい)。
年表(要点)
- 1673年:撤藩方針表明、呉三桂挙兵。
- 1674–1675年:耿精忠・尚之信が呼応、戦線が福建・広東に拡大。
- 1676年:清軍反攻、連合内で離反発生。
- 1678年:呉三桂が「周」称帝、直後に病没。
- 1681年:昆明陥落、三藩の乱終結、撤藩完了。