ルーマニア
ルーマニアは、東ヨーロッパのバルカン半島北部に位置する国である。カルパチア山脈とドナウ川、黒海沿岸に囲まれた多様な自然環境を持ち、古代ローマ支配に由来するラテン系言語を話す民族国家として知られる。同じバルカン地域の多くがスラヴ系言語と正教会文化を基盤としているのに対し、ルーマニアはラテン系言語・正教会という独自の組み合わせを形成してきた。近代以降は列強間の勢力争いに翻弄されながらも国家統一と独立を進め、現在はEUやNATOに加盟する国家として国際社会に参加している。
地理的特徴と民族・宗教
ルーマニアの国土は大きく山岳地帯、丘陵地帯、平原地帯に分かれる。中央部にはカルパチア山脈が環状に連なり、その内部にはトランシルヴァニア高原が広がる。南部のワラキア平原や東部のモルダヴィア地方はドナウ川と支流によって肥沃な農業地帯を形成し、河口部にはドナウ・デルタの湿地帯が広がる。人口の多数を占めるのはロマニア人であり、ほかにハンガリー系やドイツ系、ロマ(ジプシー)などの少数民族が存在する。宗教は東方正教会が主流で、民族的アイデンティティと結びついて近代の民族運動を支えてきた。
中世諸公国と近代国家の形成
中世の現在のルーマニア地域には、ワラキア公国とモルダヴィア公国、さらにトランシルヴァニア侯国などの諸政体が成立した。これらはしばしばハンガリー王国やポーランド、さらにはオスマン帝国の影響下に入り、宗主権のもとで自治を維持する体制をとった。近代に入るとナショナリズムの高まりの中で諸公国の統一要求が強まり、1859年にはワラキアとモルダヴィアが同一の公を選出するかたちで事実上の統合を達成し、やがて「ルーマニア公国」と称するようになった。露土戦争(1877〜78年)に際してロシア側についた同国は、戦後のベルリン会議(1878)とベルリン条約において独立を国際的に承認された。これらの会議はドイツ帝国宰相ビスマルクが主導したビスマルク外交とビスマルク体制の一環として、いわゆる東方問題とバルカン諸国の処遇を調整する場でもあった。こうしてルーマニアは立憲君主制国家として列強の一角に認められていく。
世界大戦と領土の変化
19世紀後半のヨーロッパでは、ドイツ・オーストリア・ロシアの皇帝による三帝同盟をはじめとする同盟網が組まれ、バルカン半島は列強の利害が交錯する緊張の場となった。第1次世界大戦に際してルーマニアは当初中立を保ったが、トランシルヴァニアなどのルーマニア人居住地域の併合を条件に英仏側へ参戦する。戦後、ハプスブルク帝国解体の結果として領土を拡大し、「大ルーマニア」と呼ばれる版図を獲得した。だが、第2次世界大戦期にはナチス・ドイツとソ連の圧力の下で領土を分割され、政治体制も右派独裁や王政の揺れ動きの中で不安定な状況に置かれた。
- 第1次世界大戦で協商側に参戦し、戦後に版図を拡大した。
- 第2次世界大戦では枢軸国側に接近したが、途中で連合国側へと転じた。
- 戦争と講和を通じて国境線はたびたび変更され、民族構成にも影響を与えた。
社会主義体制とその崩壊
第2次世界大戦後、ソ連軍の進駐と国内共産勢力の台頭によりルーマニアは社会主義共和国となった。これは東欧全体に広がった社会主義運動の一環であり、その思想的背景にはドイツのベーベルやラサールが展開した労働運動・社会主義理論の系譜も位置づけられる。チャウシェスク政権下では個人独裁と重工業偏重の経済政策が進められ、農村からの強制的な都市移住や秘密警察による監視体制が強化された。その一方で対外的にはソ連から一定の距離をとる独自外交を展開し、ワルシャワ条約機構内で相対的な自律性を保持しようとしたが、国民生活は慢性的な物資不足と抑圧に苦しめられた。1989年の民主化革命によってチャウシェスク政権は崩壊し、社会主義体制から多党制民主主義への移行が進められた。
現代の政治・経済と国際社会での位置づけ
ポスト社会主義期のルーマニアでは、憲法改正と市場経済化が進められ、旧国営企業の民営化や外資導入によって経済構造の転換が図られた。政治的には議院内閣制に基づく共和制を採用し、自由選挙を通じて政権交代が行われる体制が整えられている。対外的にはNATO加盟を通じた安全保障の枠組み参加と、EU加盟による単一市場への統合が重要な転機となった。これにより、西欧との経済連結が強まりつつも、農村地域の格差や汚職、少数民族問題などの課題も残されている。歴史的に列強の狭間で自立を模索してきた経験を背景に、現代のルーマニアはバルカンと中欧・黒海地域をつなぐ結節点として、政治・経済・文化の各分野で独自の役割を担いつつある。