三帝同盟
三帝同盟は、19世紀後半のヨーロッパ国際関係において重要な位置を占めた同盟であり、プロイセン主導で成立したドイツ帝国、ロシア皇帝を頂くロシア帝国、そしてハプスブルク家が支配するオーストリア=ハンガリー帝国の三つの皇帝を結びつけた体制である。保守的な君主国同士が革命運動を抑圧しつつ、ヨーロッパの勢力均衡を維持することを目的としており、ドイツ宰相ビスマルクの巧みな外交政策の一環として位置づけられる。
成立の背景
三帝同盟が構想された背景には、普仏戦争後に成立したドイツ帝国を国際的に安定させ、孤立したフランスの復讐戦を防ごうとするビスマルク外交の構想があった。ビスマルクは、フランスを包囲しつつもドイツ自身は「飽和した国家」として領土拡張を控え、列強間の対立を調停しながら勢力均衡を維持しようとした。そのためには、東方で利害が衝突しやすいロシアとオーストリア=ハンガリー帝国を同時にドイツと結びつけ、相互の対立を同盟内部に囲い込む体制が必要とされたのである。
締結と内容
三帝同盟は、1873年にドイツ皇帝、ロシア皇帝、オーストリア皇帝の間で合意された協定に始まる。この同盟は、厳密な軍事同盟というよりも、三皇帝間の友好と協調、ヨーロッパ秩序の現状維持、社会主義や民族運動など革命的動揺の抑圧をうたう保守的協定であった。とくに、バルカン問題などで意見が分かれた場合でも、まず三国間で協議を行い、単独行動を避けることが重視された。のちに1881年には改めて条約として再構成され、一定期間、東欧とバルカン半島の安定に寄与したと評価される。
- 加盟国はドイツ、ロシア、オーストリアの三皇帝国であり、三帝同盟の名の由来となった。
- 内容は主として相互協議と友好維持であり、露骨な攻守同盟ではなく調整的性格を持った。
- 革命運動や急進的民族運動に対する共同歩調がうたわれ、保守的秩序の維持が強調された。
バルカン問題と同盟の動揺
三帝同盟は、ヨーロッパ全体の安定を標榜しながらも、バルカンをめぐる利害衝突によって次第に動揺した。とくに1870年代後半の露土戦争とそれに続く1878年のベルリン会議では、ロシアがスラヴ系諸民族への影響力拡大をはかる一方、オーストリアは自国の安全保障の観点からバルカンへの進出を望み、両国の対立が先鋭化した。ビスマルクは「誠実な仲裁者」を自任して両国間の調停に努めたが、ロシアはオーストリア寄りと受け取れる決定に不満を募らせ、三国協調は次第に信頼を失っていった。
崩壊とその後の再編
三帝同盟は、1880年代に入るとバルカン危機の再燃とともに事実上機能不全に陥り、1887年には更新されずに崩壊へと向かった。その後ビスマルクは、オーストリアとイタリアを結ぶ三国同盟を軸に安全保障を固めつつ、ロシアとの関係を維持するため再保険条約を結ぶなど、柔軟なビスマルク体制の再編を試みた。にもかかわらず、三帝同盟崩壊後の東欧とバルカンの不安定化は、長期的には列強間のブロック化と緊張の高まりを促し、のちの第一次世界大戦へとつながる国際環境の形成に影響を与えたと考えられている。