モールス(モース)
モールス(モース)は、19世紀に活躍したアメリカ合衆国の発明家・画家であり、電信機とモールス信号を実用化したことで知られる人物である。彼の電信システムは、遠隔地間の通信時間を劇的に短縮し、政治・経済・軍事・日常生活に大きな変化をもたらした。近代通信網の原型は、彼の仕事を抜きに語ることができず、鉄道網の整備や新聞報道の発展、証券・商品取引の高度化などにも深く関係している。
生い立ちと画家としての活動
サミュエル・モールスは1791年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州に生まれた。父は聖職者であり、厳格な宗教的環境のもとで育ったとされる。若いころは電気ではなく美術に関心を示し、大学で学んだのち画家としての道を歩んだ。肖像画家として活動し、ヨーロッパに滞在して古典絵画に触れるなど、当初は芸術家として名を成そうとしていた。この時期の経験は、のちに精密な機械づくりや実験を行う際の観察力や根気にもつながったと考えられる。
電信機発明への転機
電信機の発明へ向かう転機は、ヨーロッパからアメリカへの船旅の途中にもたらされたといわれる。船内で電磁気学の最新の成果を耳にし、電流のオン・オフの変化を信号として利用できることに強い関心を抱いた。帰国後、モールスは画家としての活動を続けつつ、電気回路を利用した通信装置の研究に取り組み、試作機を作り出した。この過程では、電磁石に関する研究を進めていた物理学者や技術者の知見も取り入れられ、電信装置を長距離に対応させる工夫が行われた。
モールス信号の考案
モールスが考案した信号方式は、短点と長点の組み合わせによって文字や数字を表現するもので、後に「モールス信号」と呼ばれるようになった。当初は数字を中心とした符号体系だったが、実用化に向けて改良が進み、アルファベットを効率よく表せるよう整理されていった。単純なオン・オフの組み合わせで複雑な情報を送るという発想は、のちの電気通信やデジタル情報処理にも通じるものであり、情報の符号化という観点からも重要な意味を持っている。
ワシントン−ボルティモア間の実験線
モールスは、電信技術の有用性を示すため政府に支援を求め、1840年代にはワシントンとボルティモアを結ぶ電信線の建設資金を獲得した。1844年、この線路を利用した公開実験で送られた「What hath God wrought」という文言は、電信時代の幕開けを象徴する有名なメッセージとなった。これを契機に、電信線はアメリカ国内に急速に広がり、新聞社や金融機関、行政機関、軍隊が重要情報の伝達に電信を活用するようになった。
特許紛争と晩年
電信や信号方式の有用性が明らかになると、同様の技術をめぐる特許紛争も激しくなった。モールスは自らの発明を守るため裁判で争い、多くの局面で権利を認められたことで大きな財産と名声を得た。その一方で、技術発展に対する他者の貢献をどこまで評価するかをめぐって論争も生じたと伝えられる。晩年のモールスは、慈善活動にも関心を示し、教育・宗教・文化事業への寄付を行った。彼は1872年に亡くなったが、その時点ですでに電信は世界各地に普及しており、地球規模の通信網の一部となっていた。
科学技術と市民生活への影響
モールスの電信システムは、19世紀後半の社会に大きな影響を与えた。遠隔地の市場価格や政治ニュースがほぼ同時に伝わることで、取引や外交が迅速になり、鉄道事故の防止や軍事行動の指揮にも利用された。この意味で、電信は近代の情報社会への第一歩であり、電話・無線・インターネットへと続く長い技術史の起点のひとつといえる。同時代には、電磁誘導を研究したファラデーや、エネルギー保存則に関わる研究を行ったマイヤー、物理学の体系化に貢献したヘルムホルツなど多くの科学者が活動しており、こうした成果とともに19世紀の科学技術は急速に進展した。
同時代の科学者との関連
モールス自身は物理学者ではなく、もともと画家であったが、同時代の科学者たちの成果を応用することで通信技術の革新を実現した点に特徴がある。細菌学を開拓したパストゥールやコッホ、遺伝法則を明らかにしたメンデル、有機化学や肥料研究で知られるリービヒらと同様に、モールスもまた19世紀の科学革命的な雰囲気の中で活動した人物である。これらの研究成果は、それぞれ医療、農業、産業など異なる分野に影響を及ぼしたが、総体としてみれば、市民生活と科学技術の結びつきを深める流れを形成していた。
日本への電信導入とモールスの影響
日本では、幕末から明治初期にかけて西洋技術の導入が進むなかで電信が導入され、政府の情報伝達手段として重要な役割を果たした。明治政府は全国各地に電信網を整備し、行政・軍事・経済政策の遂行を支えた。日本における電信の技術は欧米由来であり、その根底にはモールスの開発した通信原理と信号体系が存在する。こうした流れは、近代日本の形成と科学技術の受容を論じるうえで重要な要素であり、19世紀の科学技術と市民生活の関係を考察する際にも欠かせない視点となっている。