マイソール戦争|南インドで英仏とマイソールが激突

マイソール戦争

マイソール戦争は、18世紀後半の南インドでイギリス東インド会社とマイソール王国が4回にわたって衝突した一連の戦争である。ハイダル・アリーとその子ティプー・スルターンが主導し、西欧勢力の進出とインドの植民地化の過程で、イギリスに対し最も激しく抵抗した地域勢力の一つと位置づけられる。

南インド情勢とマイソール王国

18世紀半ば、南インドではムガル帝国の権威が衰退し、マラーター同盟やニザーム政権など複数の地域勢力が覇権を争っていた。その中でマイソール王国は軍制改革と火器の導入を進め、しだいに強大化した。こうした状況の下で、インド産綿布貿易や徴税権をめぐる利害対立が、マイソールとイギリス東インド会社の対立を深めていった。

第一次マイソール戦争

第一次マイソール戦争(1767〜1769年)は、マイソール王ハイダル・アリーが、マドラスを拠点とするイギリス勢力を牽制するために始まった。初期にはイギリス側が優勢であったが、ハイダル・アリーは騎兵戦と機動力を活かして反攻し、マドラス近郊まで進出した。最終的に両者はマドラス条約を結び、相互援助を約する講和が成立したが、対立の根本的解決には至らなかった。

第二次マイソール戦争とティプー・スルターン

第二次マイソール戦争(1780〜1784年)は、イギリスがフランス勢力を南インドから排除しようとする中で、マイソール側が危機感を強めたことから勃発した。戦争中にハイダル・アリーが没すると、その子ティプー・スルターンが王位を継承し、より徹底した対英戦を指導した。ティプーはロケット兵器を含む新兵器を投入してイギリス軍に打撃を与え、最終的にマンガロール条約が結ばれて講和が成立した。

第三次マイソール戦争

第三次マイソール戦争(1789〜1792年)は、ティプー・スルターンがトラヴァンコールを攻撃したことを契機としている。トラヴァンコールはイギリスと同盟関係にあったため、イギリスはニザーム政権とマラーター同盟と連合し、マイソールを包囲した。長期の戦闘の末、ティプーはセリンガパタム条約を受け入れ、大きな領土割譲と多額の賠償金支払いを強いられた。

第四次マイソール戦争と王国の崩壊

第四次マイソール戦争(1798〜1799年)は、ティプー・スルターンがフランス革命政府との接近を図ったことが、イギリスに脅威とみなされたことから始まった。イギリスは再び周辺諸勢力と連合軍を組織し、マイソールの首都セリンガパタムを包囲した。1799年の総攻撃でティプーは戦死し、マイソール王国は事実上崩壊した。

マイソール戦争とイギリス支配の拡大

マイソール戦争の結果、イギリスは南インドの戦略的要地を掌握し、マイソール領の一部を直接支配下に編入するとともに、残余に従属的な土侯政権を設置した。これにより、ベンガル地方ディーワーニーを得たのに続き、イギリスは内陸部にも影響力を浸透させ、ベンガル太守ベンガル総督のもとで形成された支配体制が南インドにも広がっていった。

  • 南インドにおける有力軍事国家の崩壊により、イギリスの軍事的優位が決定的となった。
  • 同盟・保護条約を通じた間接支配のモデルが確立され、他地域にも適用された。
  • 軍事費と賠償金の負担が在地社会を圧迫し、のちの反英運動の土壌ともなった。

インド植民地化史における位置づけ

マイソール戦争は、プラッシーの戦いやブクサールの戦いと並んで、イギリスが西欧勢力の進出とインドの植民地化を進めるうえでの転換点となった。南インドにおける有力な軍事国家マイソールの敗北によって、イギリスに対抗しうる在地勢力は大きく後退し、のちのインド全域への支配拡大の足場が固められたと評価される。