ブール戦争
ブール戦争は、19世紀末から20世紀初頭にかけて南アフリカで起こった、イギリス帝国とブール人国家との戦争である。ここでいうブール人は、オランダ系を中心とする白人農民であり、後にアフリカーナーと呼ばれる人々である。戦争は1880年から1881年の第一次と、1899年から1902年の第二次の2回にわたって行われ、金やダイヤモンド資源をめぐる利害、帝国主義政策、白人同士の民族対立が複雑に絡み合った紛争であった。
ブール人社会と戦争の背景
ブール戦争の前提として、オランダ東インド会社時代から続くケープ地方の植民の歴史がある。ケープはやがてイギリスの支配下に入り、多くのブール人はイギリス化政策や黒人政策をめぐる対立から内陸へ移住した。この移住運動はグレート=トレックと呼ばれ、彼らは内陸部にトランスヴァール共和国やオレンジ自由国といった独立国家を建設した。しかし、金鉱やダイヤモンド鉱山の発見によって地域の戦略的価値が高まると、イギリスはケープから内陸へと勢力を拡大し、ブール人国家との対立が深まっていった。
第一次ブール戦争
第一次ブール戦争(1880〜1881年)は、イギリスが1877年にトランスヴァール共和国を一方的に併合したことへの反発から始まった。ブール人はゲリラ戦術を駆使して抵抗し、マジェバの戦いなどでイギリス軍に勝利した。イギリス本国では遠隔地での戦争に対する厭戦論も高まり、最終的にイギリスはトランスヴァールに内政上の自治を認める妥協に応じた。こうして第一次戦争は短期間で終結したが、領有権や宗主権をめぐる問題は解決されず、後の大規模な衝突の火種として残った。
第二次ブール戦争と帝国主義の頂点
第二次ブール戦争(1899〜1902年)は、南アフリカにおけるイギリス帝国主義の頂点を示す戦争であった。トランスヴァールの金鉱地に流入したイギリス系移民(アウトランダー)の参政権問題や、セシル・ローズらによる対ブール強硬策が対立を激化させ、全面戦争に発展した。戦争初期、ブール側は機動力に勝り、ケープ植民地やナタールを攻撃して優勢に立ったが、動員を進めたイギリスは大軍と最新兵器で反攻し、ブール軍を追い詰めた。
ゲリラ戦と焦土作戦・収容所
正規戦で劣勢となったブール側は、騎馬を活かしたゲリラ戦に転じ、鉄道や補給線を攻撃してイギリス軍を悩ませた。これに対抗してイギリスは農場の焼き払いなどの焦土作戦を行い、家族や住民を収容所に隔離した。この政策により、多くのブール人女性や子供、さらには黒人住民も劣悪な環境で死亡し、第二次ブール戦争は近代的な「収容所」の先駆例として負の記憶を残した。このような苛烈な戦争形態は、同時期のズールー戦争など他地域の植民地戦争とも結びつき、アフリカ支配の実態を象徴する出来事となった。
講和と南アフリカ連邦の成立
1902年の講和条約によって、ブール戦争はイギリスの勝利に終わり、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国はイギリス領へ編入された。その後、イギリスはブール人エリートとの妥協を進め、1910年にはケープ、ナタール、トランスヴァール、オレンジ川植民地を統合した南アフリカ共和国(南アフリカ連邦)が成立した。ただし、この妥協は白人間の和解を優先し、黒人やカラードなど有色人種の政治的権利を大きく制限する体制へとつながった。
ブール戦争の歴史的意義
ブール戦争は、南アフリカのみならず世界史においても重要な転換点である。軍事技術や物資動員の規模、報道や世論の影響などから、しばしば「第1次世界大戦の前哨戦」とも評される。また、戦争を通じてブール人の民族意識は一層強まり、後のアフリカーナー・ナショナリズムや人種隔離政策への道を開いた。一方で、戦争の残虐性はイギリス国内外で批判を呼び、帝国主義支配の正当性が問われる契機ともなった。こうしてブール戦争は、アフリカ分割の時代における支配と抵抗、そして近代国家と民族運動の関係を考えるうえで欠かせない事例となっている。