ブワイフ朝|イラン系軍閥が都バグダードを支配

ブワイフ朝

ブワイフ朝は10世紀中葉から11世紀半ばにかけてイラン高原とイラクを支配したシーア派系の王朝である。勢力の核はカスピ海南岸のダイラム人傭兵集団にあり、創業者ブワイフの三兄弟(アリー=イマード・アッダウラ、ハサン=ルクン・アッダウラ、アフマド=ムイズ・アッダウラ)が各地を制圧して連合政権を築いた。945年、アフマドがバグダードに入城し、アッバース朝カリフから「アミール・アル=ウマラー(司令長官)」に任命されて実権を掌握、カリフ権威の下に事実上の支配を確立した。最盛期のアドゥド・アッダウラ(在位977–983)は「シャーハーンシャー(諸王の王)」を称し、イラン・イスラーム世界の政治秩序を再編した王朝として知られる。

起源と成立

9世紀末から10世紀のイラン西部では、ザイヤール朝やサーマーン朝など地方政権が割拠し、傭兵として名高いダイラム人が軍事市場を担っていた。ブワイフの三兄弟はこの流れに乗り、934年にファールス(シーラーズ)を拠点化、続いてジャバル(レイ)とイラク(バグダード)を押さえて連合体制を築いた。三兄弟は地理ごとに領域を分有しつつ、家門内の序列と婚姻関係で結束を図る「家侯連合」の性格を強め、ブワイフ朝の基礎的な統治枠組みを作ったのである。

政治構造と称号

ブワイフ朝の核心は、バグダードのアッバース朝カリフの存在を利用した二重権力構造にあった。カリフの宗教的正統性を温存しつつ、実際の軍政はアミールが掌握する。これによりスンナ派多数の社会を刺激しすぎずに統治が可能となった。他方、イラン的王権の復権を象徴する「シャーハーンシャー」号や、ペルシア系の官職・儀礼を採用して王朝イデオロギーを補強した。政権は大きくファールス系、レイ系、イラク系の三系統に分岐し、文官層(ワズィール、ディーワーン)と軍人層(ダイラム歩兵・トルコ系グラーム騎兵)が均衡する複合的な権力配置を取った。

軍事と編成

軍事の中核は長槍と盾で密集戦を行うダイラム歩兵で、これに機動力と突撃力に優れたトルコ系騎兵が付随した。湾岸では船団を整備してペルシア湾交易路の治安を維持し、内陸では要塞化した城塞都市と山岳要地の連結で防衛線を形成した。財政・給与は貨幣支給に加え、地方収益の配分や徴税請負の導入によって補われ、実戦経験豊富な傭兵の忠誠維持に用いられた。

経済・財政と都市

ファールスのシーラーズやイラクのバスラ・ワーシト、イラン高原のレイは、内陸キャラバンと海上交易の結節点として繁栄した。とりわけシーラーズとシーラーフ(シーラーフ港)はインド洋世界と結ぶ交易の要衝で、香辛料・織物・真珠などが往来した。王朝は市場監督や度量衡の統一、道路・橋梁・灌漑の整備を進め、税制は地租・通行税・関税を組み合わせた複線的構造をとる。都城ではバザールを核とする都市共同体が自治的に機能し、官僚と学者・商人が結びつく都市社会が成熟した。

宗教政策と社会

ブワイフ朝は君主家門が十二イマーム派(イマーム派)に親近的で、バグダードなどでアーシューラーやガディールの祝祭が公然と営まれた。他方でスンナ派法学・裁判制度は維持され、ハナフィー派やシャーフィイー派の法学者も活動を続けた。こうした「公的儀礼の調整」と「法的実務の継続」により、宗派多元社会の秩序が保たれた。都市のワクフ(寄進財産)は教育・施療・宗教施設を支え、共同体利益の循環装置として機能した。

文化事業と学芸保護

最盛期のアドゥド・アッダウラは治水・堤防の改修、病院(ビーマールスターン)の創設、図書館の整備を進め、実学と医療を奨励した。彼の名を冠する病院は医学教育・施療の拠点として名高く、学術サークルには哲学・天文・歴史・文芸の諸分野が集った。ペルシア語文学の復興は宮廷文化の洗練を促し、行政書記術(インシャー)や年代記の編纂は後代史料の土台となった。

対外関係と戦略

北メソポタミアのハムダーン朝、アラビア湾岸のカルマト派、東方のサーマーン朝・ガズナ朝など、周辺諸勢力との角逐は絶えなかった。ブワイフ朝はカリフ保護とバグダード防衛を掲げつつ、現実主義的な同盟・講和・婚姻外交を併用した。ホラーサーン方面はガズナ朝の興隆を認めて勢力線を調整し、西方ではビザンツ帝国との境域で緩衝が維持された。こうした柔軟な境界管理は王朝存続に資したが、同時に分権化を促す要因ともなった。

衰退と終焉

983年のアドゥド・アッダウラ没後、家門内の継承争いと地域政権化が進行し、宮廷のトルコ系軍人勢力が台頭した。財政難と軍事供給網の弛緩は地方の離反を招き、11世紀半ばにはオグズ系のセルジューク朝が西進する。1055年、トゥグリル・ベグがバグダードに入城してカリフを保護下に置き、ブワイフ朝のイラク権は瓦解した。1062年までに主要領域も相次いで併合され、王朝は歴史の表舞台から退いた。

年代概略

  1. 934年:アリー(イマード・アッダウラ)がファールスを掌握
  2. 940年代:レイ・イスファハーン方面で勢力拡張
  3. 945年:アフマド(ムイズ・アッダウラ)がバグダード入城、実権掌握
  4. 955年頃:三系統(ファールス・レイ・イラク)の均衡が定着
  5. 962年:ルクン・アッダウラの下で家門秩序を再編
  6. 977–983年:アドゥド・アッダウラ最盛期、「シャーハーンシャー」を称す
  7. 981年頃:アドゥド病院の創設など公共事業が進展
  8. 983年:アドゥド没、内紛と分権化が加速
  9. 1055年:セルジューク朝がバグダード入城、イラク支配終焉
  10. 1062年:ファールス・レイの支配も消滅、王朝滅亡

用語と表記

日本語史学ではブワイフ朝のほか、「ブワイード朝」「ブワイヒ朝」とも表記される。アラビア語形はBūyid/Būyah系に由来し、家門名の「ブワイフ(ブーヤ)」に王朝語尾を付したものである。宗派的にはシーア派イマーム派に近接したが、官僚制や法の運用はスンナ派法学やサーサーン朝以来の行政伝統と折衷され、イラン・イスラーム世界に特有の重層的秩序を体現した王朝と評価される。