シュトレーゼマン
シュトレーゼマン(グスタフ=シュトレーゼマン、1878-1929)は、ワイマール共和国期のドイツ政治を代表する政治家であり、首相および外相として、戦後混乱からの立て直しと西欧諸国との和解を推し進めた人物である。急進的な革命でも保守的な復古でもなく、議会制民主主義の枠内で現実的な調整を図る路線をとり、ロカルノ条約や国際連盟加盟を通じてドイツの国際的地位の回復に努めた点で、20世紀前半のヨーロッパ外交史において重要な位置を占める。
青年期と政界進出
シュトレーゼマンはザクセン王国ドレスデン近郊の中流市民の家庭に生まれ、ライプツィヒ大学などで文学や経済学を学んだ。若くして実業界に身を置き、鉱工業や輸送業に関わる団体で活動しながら、帝政期ドイツの自由主義政党に接近していった。やがて国政選挙に当選して帝国議会議員となり、産業資本の利害を代表しつつも、社会政策や外交問題に積極的に発言する政治家として頭角を現した。
戦時とドイツ人民党の形成
第一次世界大戦期、シュトレーゼマンは当初、勝利による領土拡張を主張する強硬派として知られたが、戦局の悪化と社会の疲弊が深まるなかで、しだいに現実的な講和と国内改革の必要性を認識するようになった。敗戦後、帝政崩壊を経て成立したワイマール共和国では、保守自由主義勢力を糾合したドイツ人民党(DVP)の指導者となり、王政復古を望む保守派と新しい共和政とのあいだで折り合いをつける調整役として振る舞った。
首相就任とインフレ収束政策
1923年、シュトレーゼマンは共和国の首相に就任し、占領下のルール地方問題や、猛烈なインフレーションに直面した。彼は消極抵抗政策を転換し、フランス首相ポワンカレとの交渉を通じて賠償支払いの再調整を模索した。また、新通貨レンテンマルクの導入や財政再建を進め、ハイパーインフレの沈静化に道を開いた。こうした政策は、当時の大統領エーベルトの支持のもとで進められ、共和国体制の一時的安定に大きく貢献した。
外相としてのロカルノ外交
首相を短期間で退いた後も、シュトレーゼマンは外相として長く政権に留まり、対外政策の中心人物であり続けた。彼はヴェルサイユ体制を正面から否定するのではなく、その枠組みを部分的に受け入れつつ改訂を目指す「履行政策」をとり、1925年のロカルノ条約締結や、1926年のドイツの国際連盟加盟を実現した。これにより、西欧諸国との関係改善が進み、ヴェルサイユ条約で孤立していたドイツは、ふたたび欧州外交の一員として承認されるようになった。
国内政治とワイマール体制への影響
シュトレーゼマンの路線は、ワイマール憲法に基づく議会制民主主義を前提としつつ、保守派・中道・社会民主主義勢力の協力によって国政を運営する「大連合」の構想に支えられていた。しかし、農村部や中産階級の不満、右派・左派双方の急進勢力の台頭、そして世界恐慌前夜の経済的不安定は、この穏健な折衷路線を脆弱なものにした。にもかかわらず、彼の在任中には一時的な経済成長がみられ、文化面では「ワイマール文化」と呼ばれる都市文化が開花するなど、比較的平穏な時期が続いた。
晩年と評価
1929年、シュトレーゼマンは体調を崩して急逝し、その直後に世界恐慌が発生したことで、彼の築いた外交的信頼と経済的安定は急速に揺らいでいった。彼の死後、議会制民主主義と国際協調路線を支えた指導者を失ったワイマール共和国は、政治的分断を深め、やがて急進的勢力の台頭を許すことになる。今日、シュトレーゼマンは、戦後秩序を修正しつつ平和的にドイツの地位回復を図った現実主義的政治家として、またヨーロッパ協調の先駆けとして高く評価されている。その姿勢は、後の欧州統合や英領コモンウェルスやイギリス連邦など国際協力の枠組みにも通じる理念として理解されることが多い。