コシュート
コシュートは、19世紀のハンガリー民族運動を代表する政治家・雄弁家であり、1848年の革命期にハンガリー独立を掲げて戦った指導者である。彼はハプスブルク帝国の支配下にあったハンガリーの自治拡大と国民的統合を目指し、自由主義的改革と民族主義を結びつけた点で、同時代の諸国民の春を象徴する人物の一人とされる。
生い立ちと初期の活動
コシュートは、1802年にハンガリー北部(現在のスロバキア地域)で生まれた。弁護士として出発した彼は、貴族議会の記録を新聞形式で公表するなど、言論活動を通じて政治への関心を高めていった。このころのハンガリーは、ハプスブルク家による支配のもとで自治権が制限され、農民は封建的な負担に苦しんでいたため、改革を求める声が強まっていた。
ハンガリー民族運動の指導者へ
やがてコシュートは、自由主義的貴族や都市市民層を結集させる演説家として頭角を現し、国民的な支持を獲得した。彼はハンガリー語の公用語化、封建的特権の廃止、議会制度の近代化などを訴え、近代的なハンガリー民族運動を推進した。この運動は、同時期のベーメン民族運動や、ドイツ・イタリアでの民族運動とも呼応し、帝国支配の下にある諸民族が自決を求める流れの一部であった。
1848年革命とハンガリー政府
1848年にフランスで二月革命が起こると、その波はドイツ諸邦の三月革命やウィーン三月革命へと拡大し、ハンガリーでも大規模な改革要求が噴出した。ウィーン政庁が動揺する中で、コシュートは議会での演説を通じて責任内閣の樹立と広範な改革「三月法」を実現させ、ハンガリーは自治を大きく拡大した。彼は新政府の財務相として財政基盤の整備に取り組み、近代国家としての体制づくりを急いだ。
独立宣言と武力衝突
しかし、民族運動の高揚は、ハプスブルク朝との対立を急速に深めた。クロアチアなど他の民族との利害対立も絡み、ハンガリーとオーストリアは武力衝突に向かう。1849年、強硬化したウィーン宮廷に対抗して、議会はハプスブルク家の支配を否認し、ハンガリーの独立を宣言した。このときコシュートは「国家総裁(総裁大統領)」に選出され、独立国家ハンガリーの最高指導者として戦争指導にあたった。
革命の敗北と亡命
しかし、ハンガリー軍は一時的に優勢に立ったものの、オーストリアがロシア帝国に援軍を要請したことで戦局は逆転する。圧倒的な兵力の前にハンガリー革命は劣勢となり、1849年に降伏を余儀なくされた。コシュートはオスマン帝国領へ亡命し、その後ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を歴訪しながら、ハンガリー独立への支持を訴え続けた。この亡命活動は、国際世論にハンガリー問題を印象づける役割を果たしたが、具体的な軍事介入を引き出すには至らなかった。
亡命後の活動とヨーロッパ政治
亡命先でコシュートは、オーストリア帝国の多民族支配を批判し、自由主義と民族自決の原則に立った新たなヨーロッパ秩序を構想した。彼はイタリアやドイツの統一運動にも注目し、プロイセン主導の統一構想やフランクフルト国民議会の試みなどと比較しながら、自らの構想を語った。また、後に第二帝政を樹立するルイ=ナポレオンの動向にも関心を寄せ、権威主義的統一と自由主義的民族自決との違いを強調した。
思想の特徴
コシュートの思想は、自由主義・立憲主義と民族主義を結びつけた点に特徴がある。彼は封建的身分制を否定し、市民的自由と法の下の平等を重視したが、その自由は「ハンガリー民族」という枠組みの中で構想された。そのため、ハンガリー領内の少数民族に対する配慮が十分ではなかったとする批判もある。こうした問題は、のちのドイツ統一問題やバルカン地域の民族紛争とも共通する近代ヨーロッパの課題を先取りしていたといえる。
ハンガリー史と諸国民の春における位置づけ
コシュートは、ハンガリーにおける国民国家形成の象徴的人物として記憶されており、19世紀後半の妥協体制(オーストリア=ハンガリー二重帝国)による自治拡大にも思想的影響を与えたと評価される。また、その活動は1848年前後の諸国民の春全体の中で、多民族帝国に対する民族運動の典型例として位置づけられる。同時代のウィーン三月革命やベルリン三月革命、中央ヨーロッパの諸民族運動とあわせて理解することで、彼の歴史的意義がより明確になる。