ハンガリー民族運動
ハンガリー民族運動は、近世以来オーストリアの支配下に置かれていたハンガリー王国において、マジャル人が政治的自立と民族的統一を求めて展開した運動である。とくに19世紀前半から後半にかけて、ハンガリーの貴族や市民層は、王国の自治権強化とハンガリー語の公用語化、さらには立憲的な政治体制の確立を要求した。背景には、フランス革命やナショナリズムの高揚、そしてハプスブルク家の支配する多民族帝国への反発があった。ハンガリー民族運動はやがて1848年革命の高まりの中で武装蜂起へと発展し、1867年の妥協によるオーストリア=ハンガリー二重帝国成立へとつながる重要な歴史過程をなした。
歴史的背景
中世以来、ハンガリー王国は独自の王国として存続していたが、16世紀以降、オスマン帝国との戦争を経て、その多くがオーストリア帝国の統制下に入った。ハンガリー貴族は身分的特権を保持する代償として、王国の政治的主導権をハプスブルク家に譲っていった。19世紀初頭、ナポレオン戦争後のウィーン体制の下でヨーロッパは保守的秩序を維持しようとしたが、その裏側で各地の民族は自決と統一を求める動きを強めていた。ハンガリーでも、伝統的なラテン語行政のもとで地方議会が機能していたが、マジャル人の間では「自分たちの言語・文化を基礎とする国家」を志向する気運が高まり、これがハンガリー民族運動の土壌となったのである。
改革運動と文化的覚醒
19世紀前半になると、ハンガリー貴族の一部は、農奴制の廃止や近代的経済政策を求める「改革貴族」として台頭した。セーチェーニ・イシュトヴァーンらは、道路や運河の整備、産業育成を通じてハンガリー社会の近代化を試み、議会を通じて改革法案を提起した。一方、ラヨシュ・コシュートは新聞を通じて世論を喚起し、ハンガリー語で政治を語ることにより都市市民や地方の小貴族を動員した。こうした政治的運動と並行して、文学・学術の分野でもハンガリー語による作品が増え、民族意識の覚醒が進んだ。文化面の覚醒は、後に武装闘争に向かうハンガリー民族運動の精神的基盤となった。
言語復興とハンガリー語の公用語化
ハンガリー王国では長らくラテン語が行政言語として用いられてきたが、19世紀に入るとマジャル人知識人はハンガリー語の地位向上を求めた。ハンガリー科学アカデミーの設立や文学者ペテーフィらの活躍により、詩や小説、政治演説がハンガリー語で書かれるようになり、人々は「自分たちの国は自分たちの言葉で語るべきだ」と考えるようになった。最終的に、議会はハンガリー語の公用語化を決議し、教育・行政に広く用いられるようになった。この言語復興は、民族同一性を明確にしようとする民族運動として大きな意味を持った。
コシュートと1848年革命
1848年、フランスで二月革命が起こると、その波はドイツ・イタリア・中欧へと広がり、ヨーロッパは「諸国民の春」と呼ばれる革命の時代に入った。ウィーンでの民衆蜂起を契機に、ハンガリーでもペストで蜂起が起こり、コシュートらが主導する改革派は政府に対して広範な改革を要求した。この運動は、ヨーロッパ各地の三月革命の一部として位置づけられる。
- 封建的身分特権の廃止と農奴解放
- 言論・出版の自由
- 責任内閣の設置と立憲政治の確立
- ハンガリー軍の創設と独自の財政
これらの要求は一時的に認められ、ハンガリーは自治的な立憲国家に接近した。しかし、ウィーンの保守勢力とオーストリア帝国軍は、帝国の統一を守るために武力でハンガリーを制圧しようとした。コシュートは独立を宣言して抵抗したが、ロシア軍の援助を受けたオーストリア軍に敗北し、1849年に革命は鎮圧された。この敗北にもかかわらず、武装闘争はハンガリー民族運動の決意を象徴する出来事となった。
妥協とオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立
1848年革命鎮圧後、オーストリアは一時的に専制支配を強めたが、クリミア戦争後の国際的孤立や財政難により、帝国の統合を維持するためにはハンガリー貴族との妥協が必要になった。そこで1867年、オーストリアとハンガリーの間で「妥協」(アウスグライヒ)が成立し、オーストリア=ハンガリー二重帝国が発足した。これにより、ハンガリー王国は内政・立法・行政の面で広範な自治を獲得し、首都ブダペストは急速に発展した。この政治的妥協は、一方ではハンガリー民族運動が長年求めてきた自立を部分的に実現したものといえるが、他方で帝国内の他民族の不満を強める結果ともなった。
マジャル化政策と多民族問題
自治権を得たハンガリー政府は、今度は自らが多数派であるマジャル人の立場から国家統合を進めようとし、スロヴァキア人やルーマニア人、クロアチア人などに対して「マジャル化政策」を推し進めた。教育や行政でハンガリー語の使用を義務づけ、他民族の言語や文化を周縁化したのである。この政策は新たな民族対立を生み、帝国内部に緊張をもたらした。つまり、ハンガリーがかつてオーストリア支配に対して抱いた民族的不満は、今度はハンガリー支配を受ける側の諸民族に受け継がれていったのであり、これは後の民族自決運動やドイツ統一など、ヨーロッパ各地の再編とも関連して理解される。
ハンガリー民族運動の歴史的意義
ハンガリー民族運動は、単に一国の自治要求にとどまらず、多民族帝国における民族自決の問題を提起したという点で重要である。革命は敗北に終わったものの、封建的特権の廃止や農民解放、議会政治の導入など、社会構造の近代化を推し進める契機となった。また、言語と文化を基盤としたナショナリズムが国家形成の原理として定着していく過程を示している点でも、フランス革命以降のヨーロッパ史と密接に結びついている。さらに、ハンガリーにおける経験は、後の東欧・中欧地域における民族自決や国家独立運動の先駆例として位置づけられ、20世紀に至るまで大きな影響を与えたのである。