アルバニア併合
アルバニア併合とは、1939年にイタリアのファシズム政権がアルバニア王国に軍事侵攻し、その主権を奪ってイタリア王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世をアルバニア国王として擁立し、実質的な保護国・属領とした出来事である。これはベニート=ムッソリーニが主導した地中海・バルカン方面への膨張政策の一環であり、第二次世界大戦直前の国際秩序の不安定化を象徴する事件として位置づけられる。
アルバニア王国とイタリアの関係
アルバニアはバルカン半島西岸に位置する小国で、第一次世界大戦後にアフメト=ゾグを中心とする政権が成立し、1928年にゾグ1世を国王とするアルバニア王国となった。しかし国内産業は未発達で、財政や軍備の多くをイタリア資本に依存していた。1920年代後半にはイタリアとの友好条約や軍事協定が締結され、アルバニアは次第にイタリアの勢力圏に組み込まれていった。
経済的従属の深まり
イタリアはアルバニアの港湾整備や道路建設に資金を供給し、その見返りとして関税権や経済利権を獲得した。アルバニア政府はこれによって近代化の資金を得たが、同時に外交・軍事面でイタリアへの従属を深めたのであり、この経済的従属構造が後のアルバニア併合を容易にする土壌となった。
ムッソリーニの膨張政策と併合決定
1930年代になると、イタリアではファシズム体制が強化され、ムッソリーニはローマ帝国の再現を掲げて対外膨張を進めた。エチオピア征服に続き、ヨーロッパでも威信を示す必要があると考えたムッソリーニにとって、軍事的に脆弱でイタリア資本に依存するアルバニアは格好の標的であった。1938年のドイツによるオーストリア併合やチェコスロヴァキア解体を受け、イタリアもバルカンでの既成事実を作ろうとし、アルバニアへの圧力を急速に強めた。
ゾグ1世政権への最後通牒
イタリアはアルバニアに対し、軍事権限の共同化や港湾使用権の拡大など、主権を大きく制限する要求を突き付けた。ゾグ1世は国内の反発と主権保全の観点からこれを完全には受け入れず、交渉は行き詰まった。その結果、ムッソリーニは軍事行動による解決を決断するに至った。
侵攻とアルバニア併合の過程
- 1939年4月、イタリア軍は複数の港湾からアルバニアに上陸し、短期間で主要都市を占領した。
- アルバニア軍は装備も兵力も乏しく、本格的な抵抗を組織できずに崩壊した。
- ゾグ1世は王妃・王子とともに国外へ脱出し、王国政府は事実上瓦解した。
- その後、アルバニア議会はイタリアとの「個人的同君連合」を決議し、イタリア王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世をアルバニア国王として推戴した。
このようにしてアルバニア併合は形式上は王冠の委譲という形をとりながら、実質的にはイタリア軍事占領とファシズム体制下への編入として完了した。
併合後の統治と社会の変化
併合後、アルバニアにはイタリア王の名代として総督が派遣され、行政・軍事・警察はイタリアの強い監督下に置かれた。政党組織は解体され、代わってイタリアのファシスト党を模したアルバニア・ファシスト党が唯一の政治組織として整備された。教育や宣伝を通じて、ローマ帝国やローマ進軍を賛美するファシズム的価値観が注入される一方、農民層の貧困や少数民族問題は十分に解決されず、不満は地下で蓄積していった。
バルカン情勢と国際社会の反応
アルバニアの併合は、すでに緊張をはらんでいたバルカン情勢を一層不安定にした。隣国のユーゴスラヴィア王国やギリシアは安全保障上の脅威を感じ、フランスやイギリスに対してイタリア牽制を求めたが、両国は宥和政策の延長線上で強硬措置を避けた。そのため、かつてフランス主導で結成された小協商などの集団安全保障の枠組みは実効性を失い、ファシズム勢力の拡張を抑えられなかった。
第二次世界大戦への影響
イタリアによるアルバニア併合は、地中海とバルカンにおける戦略拠点の獲得という意味を持ち、のちにギリシア侵攻やユーゴスラヴィア分割に際して重要な足場となった。アルバニア領内からの軍事行動は、ドイツとイタリアが進めたバルカン作戦と密接に結びつき、第二次世界大戦の戦線拡大に寄与したのである。他方で占領統治は各地で抵抗運動を生み、レジスタンスはイタリア降伏後の独立回復や社会主義政権の成立へとつながっていった。このようにアルバニア併合は、一国の主権喪失にとどまらず、ヨーロッパ国際秩序と戦後体制の形成に長期的な影響を及ぼした出来事として理解される。