アラブ民族主義運動|オスマン支配からの自立

アラブ民族主義運動

アラブ民族主義運動とは、アラビア語を共有する人々が、自らを一つの「アラブ民族」とみなし、その政治的独立と統一を目指した思想と運動である。19世紀末、衰退するオスマン帝国支配下で芽生え、20世紀前半の独立運動や国家建設、さらには汎アラブ主義へと展開していった。ヨーロッパ型の民族主義に刺激を受けつつ、アラビア語・イスラーム・共通の歴史記憶を基盤とした近代的なナショナリズムである。

成立の背景

19世紀後半、オスマン帝国は列強の圧迫と内的停滞によって弱体化し、統治の合理化や中央集権化が進められた。とりわけ青年トルコ革命以後、トルコ人中心の同化政策が強まると、シリアやイラクなどアラブ諸州の官僚・地主・都市知識人は、自らの言語と伝統が軽視されていると感じるようになった。この危機感から、アラブ人としての連帯を主張するアラブ民族主義運動が育っていったのである。

アラブ文化復興と思想的土台

思想的基盤には、19世紀のアラブ文化復興運動(ナフダ)があった。印刷技術の普及とともに新聞や雑誌がベイルートやカイロ、ダマスクスで発行され、近代思想や科学とともに、古典アラビア文学やイスラーム学の再評価が進んだ。アラビア語が洗練され、共通語として意識されることで、「言語共同体としてのアラブ人」という観念が強化され、これがアラブ民族主義運動の精神的土壌となった。

第一次世界大戦とアラブ反乱

第一次世界大戦は、アラブ民族主義の転機であった。メッカの首長フサインは、イギリスと協定を結び、戦後に広大なアラブ王国の独立が認められるという期待の下で反乱を起こした。いわゆるアラブ反乱は、オスマン支配への抵抗として象徴的な意義を持ち、アラブ人が自らの国家を持ちうるという想像力を広めた。しかし戦後、列強は密約であるサイクス=ピコ協定やパレスチナにユダヤ人国家建設を示唆したバルフォア宣言に基づいて地域を分割し、アラブ側の期待は大きく裏切られた。

委任統治と独立運動

戦後、中東の多くはイギリスフランスの委任統治領とされた。シリアやイラク、パレスチナなどでは、都市住民・部族・宗教共同体が連携して反植民地闘争を展開し、その指導層にはアラブ民族主義運動の思想を持つ知識人や軍人が多かった。20世紀半ばまでに独立国家は相次いで成立したが、その多くは宗派構成や国境線が列強の都合で引かれており、後の政治的不安定さの原因ともなった。

汎アラブ主義とナセルの時代

1950〜60年代には、個々の国家の枠を超えて「一つのアラブ民族国家」を目指す汎アラブ主義が高揚した。中心人物はエジプトのナセルであり、スエズ運河国有化とスエズ危機を通じて反帝国主義の象徴となった。彼の思想は、アラブの団結・社会的平等・反植民地主義を掲げるもので、シリアやイラクのバアス党も類似の理念を共有した。短命に終わったが、エジプトとシリアの「アラブ連合共和国」構想は、汎アラブ統一の最も大胆な試みの一つである。

思想的特徴

  • アラビア語・イスラーム・共通の歴史を共有する民族としての自己認識
  • 欧米列強および旧宗主国からの政治的・経済的独立の追求
  • アラブ諸国の連帯や統一を強調する汎アラブ的志向
  • 部族・宗派・地方アイデンティティを超えた近代的国民の構想
  • イスラームを文化的資源と見なしつつ、世俗的な国家構想を志向する傾向

挫折と変容

1967年の第三次中東戦争での敗北は、汎アラブ主義にとって大きな挫折であった。各国は自国の安全保障と政権維持を優先し、国家単位のナショナリズムが強まった。また、宗派対立や部族関係、パレスチナ問題など多くの懸案が、単一の「アラブ民族」の名の下に整理しきれないことも明らかになった。その結果、強烈な統一志向を持つアラブ民族主義運動は後退し、イスラーム主義や地域ごとの独自ナショナリズムとの競合が進んだ。

現代における意義

それでも、アラブ諸国の政治言説や大衆文化において、「アラブ世界」「アラブの団結」という言葉は現在も頻繁に用いられている。アラブ連盟の枠組みや、メディア・文学・音楽の交流を通じて、文化的なアラブ共同体意識は維持されているからである。強力な統一国家を構想した古典的なアラブ民族主義運動は変容したものの、アラブ人としての自己認識と連帯の感覚は、今日も中東政治を理解するうえで欠かせない要素である。