アフガン王国|近代アフガニスタン王制の歩み

アフガン王国

アフガン王国は、18世紀中頃にアフガン系部族が西アジアと南アジアの境界地域に樹立した王制国家であり、のちのアフガニスタン国家の前身とみなされる。サファヴィー朝の崩壊とナーディル=シャーの死によって生じた権力の空白を背景に、アフマド・シャーがドゥッラーニー朝を興し、イラン高原からインド北西部、中央アジアにまたがる広大な勢力圏を築いた。近代に入ると、この王国はイギリス帝国とロシア帝国の対立、いわゆるグレートゲームの最前線となり、列強の干渉にさらされながらも、部族的王権とイスラーム的秩序の維持を図った。

成立の背景

18世紀前半、西アジアではペルシア系王朝の支配が動揺し、各地で部族勢力が台頭した。アフガン系部族もその一つであり、カンダハール周辺を拠点とするパシュトゥーン人部族連合が政治的主役となっていく。サファヴィー朝支配下で軍事力を蓄えたアフガン人は、イラン・インド両地域の境目に位置する地理的条件を利用し、自立した王国の形成をめざした。このような周辺部の自立化の流れの中でアフガン王国は誕生したのである。

ドゥッラーニー朝の拡大と支配

建国者アフマド・シャーは、各部族長との合意に基づく王権を打ち立て、周辺地域への遠征を繰り返した。とくに衰退期のムガル帝国に対してはインド北西部へ侵入し、パンジャーブやデリー近郊にまで勢力を及ぼした。カブールやカンダハールは軍事・交易の要衝として整備され、イラン、中央アジア、インドを結ぶ中継地として王国の富を支えた。他方で、王権は部族合議に依存しており、強力な官僚制や常備軍を持たなかったため、君主の死後には後継争いと内紛が頻発した。

バラクザイ朝と内紛の時代

19世紀に入ると、王位継承をめぐる争いの中で有力部族バラクザイ家が台頭し、最終的にバラクザイ朝が王位を掌握した。ドースト・ムハンマドらの時代、王権はカブールを中心に再編されるが、地方では部族長が大きな自治を保持し、中央集権は限定的であった。スンナ派イスラームの権威を背景とする統治理念は共有されていたものの、財政基盤の弱さと部族間対立のため、王国の統治構造は常に不安定であり、ここに列強が介入する余地が生まれた。

列強の干渉とアフガン戦争

19世紀のアフガン王国は、インド方面へ進出するロシアと、それを阻止しようとするイギリスとの対立の狭間に置かれた。イギリスはインド防衛の観点からカブール政権を自らに有利な体制へと作り替えようとし、第一次・第二次・第三次アフガン戦争を引き起こした。これらの戦争を通じて、王国は外交と軍事の主導権を大きく制約されつつも、形式上の独立を維持し続けた点に特徴がある。国境線の画定や通商条約の締結など、列強との交渉は、近代国家としての枠組みを受け入れざるをえない局面でもあった。

近代アフガニスタンへの移行

19世紀末から20世紀初頭にかけて、アブドゥッラフマーン・ハーンらのもとで王権強化と中央集権化が進められ、徴税制度や常備軍の整備、首都カブールの都市改造などが実施された。1919年の独立戦争を経て、外交権の完全な回復が達成されると、王国は国際社会における主権国家としての承認を得る。1920年代には「アフガニスタン王国」と称されるようになるが、王制と部族社会を基盤とする政治構造はアフガン王国以来の継続性を持っていたと理解される。

社会構造と宗教的秩序

伝統的なアフガン王国の社会は、パシュトゥーン人をはじめとする諸部族によって構成され、部族評議と慣習法を重んじる社会秩序が維持されていた。イスラーム法学者や宗教指導者は、王権を正当化し、部族間紛争の調停に重要な役割を果たした。農耕民、遊牧民、都市商人が複雑に関係し合う経済構造のもとで、王国の支配層は交易路の確保と治安維持を通じて正統性を示そうとしたが、地理的条件の厳しさと部族自立性の強さから、その統治は常に妥協と調停の上に成り立っていた。

歴史用語としてのアフガン王国

歴史学や世界史教育において「アフガン王国」という語は、18世紀のドゥッラーニー朝成立から近代アフガニスタン王制国家の形成に至る過程を指す便宜的な用語として用いられることが多い。この語には、部族的王権が列強の圧力にさらされつつも、独立性とイスラーム的秩序を保持しようとした長期的な歴史過程を一括して示す意図が込められているといえる。