インド大反乱|19世紀インド最大の植民地反乱

インド大反乱

インド大反乱は、1857年に北インドを中心に発生した大規模な反英蜂起であり、ヨーロッパではセポイの反乱とも呼ばれる。反乱は東インド会社の支配下で従軍していたインド人傭兵シパーヒーの蜂起として始まり、やがて旧ムガル帝国領や各地の藩王国を巻き込む広範な戦争となった。この事件は、以後のイギリスによるインド統治のあり方を根本的に変える契機となり、近代インド史における転換点として位置づけられる。

インド大反乱の背景

インド大反乱の背景には、経済的・政治的・宗教的要因が複雑に絡み合っていた。経済面では、会社支配のもとで土地税負担が増大し、ザミンダーリー制ライヤットワーリー制の導入によって旧支配層や農民の生活が不安定化した。政治面では、イギリス当局が「失権政策」によって後継者問題を理由に藩王の領地を併合し、多くの在地支配者の地位と名誉を奪ったことが強い不満を生んだ。さらに、イギリス産業革命とインドの関係のなかでインドの手工業は衰退し、農村社会には貧困が広がっていた。

宗教・文化面でも緊張が高まっていた。英印当局は社会改革や教育政策を通じて西欧的価値観を浸透させようとし、キリスト教布教の動きもみられた。これらはヒンドゥー教やイスラームの伝統秩序が脅かされるという危機意識を生み、シパーヒーだけでなく都市エリートや農村社会にも反発を広げていった。

反乱の直接的な契機

反乱の直接の契機とされるのが、新式エンフィールド銃の採用であった。シパーヒーは紙製の薬包を歯で噛み切る必要があったが、その薬包には牛や豚の脂が塗られていると噂された。牛はヒンドゥー教徒にとって聖なる動物であり、豚はイスラーム教徒にとって不浄であるため、この噂は宗教的禁忌を犯させる企てだと受け止められた。この問題をめぐる処分や不誠実な対応が、すでに蓄積していた不満に火をつける形となった。

  • 土地制度・税制に対する不満
  • 在地支配者や藩王の地位剥奪への反発
  • 宗教的慣習を軽視する政策への不信
  • 軍隊内部での差別待遇や処遇への不満

反乱の勃発と拡大

インド大反乱は1857年5月、北インドのメーラトでシパーヒーが蜂起したことから始まった。彼らは近郊のデリーに進軍して旧ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を担ぎ上げ、名目的ながらもムガル帝国の復興を宣言した。デリーの陥落は各地の部隊や民衆に強い衝撃を与え、ラクナウやカーンプルなどガンジス川流域の都市へと反乱は波及した。

反乱には藩王や地方支配者の一部も加わった。たとえば北インドやカシミール周辺の在地支配層は、領地回復や特権維持の期待から反英の側に立つことが多かった。一方で、藩王国の中には英印当局と協力した勢力も存在し、地域ごとに利害関係が異なっていた点に特徴がある。

都市・地域ごとの戦闘

カーンプルでは激しい市街戦と住民虐殺が発生し、ラクナウでは英印側守備隊が長期にわたり包囲されるなど、各地で凄惨な戦闘が展開された。反乱軍は統一的な指揮系統や明確な共通目標を欠いており、地域ごとに戦局がばらばらに推移した。この点が、最終的に反乱が鎮圧される一因ともなった。

反乱の鎮圧とイギリスの報復

当初苦戦した英印当局であったが、イギリス本国からの増援とシク教徒をはじめとする非反乱地域の部隊の協力を得て反攻に転じた。1857年下半期から1858年にかけて、デリー・カーンプル・ラクナウなど主要拠点が次々と奪還され、指導者層が捕縛あるいは戦死したことでインド大反乱は終息へ向かった。

鎮圧の過程では、誅殺や財産没収、村落の破壊など厳しい報復が行われ、多くの民衆が犠牲となった。こうした経験は、後のインド人の記憶に深く刻まれ、反英感情と民族意識の高揚をもたらした。

インド大反乱の結果とインド統治の再編

インド大反乱の最大の結果は、東インド会社の支配が終わり、インド総督のもとでイギリス本国が直接統治を行う体制(いわゆる英領インド帝国)への移行であった。1858年のインド統治法により会社は統治権を失い、ロンドンの大臣とカルカッタの総督がインド政策を統括する仕組みが整えられた。以後、宗教・慣習への干渉を控え、在地支配層や藩王との協調を重視する方針が打ち出される一方、軍隊編成や治安維持は強化され、反乱再発の防止が図られた。

また、インド大反乱はインド人のあいだに共通の経験として記憶され、後のインド国民会議派や民族運動からは「最初の独立戦争」として位置づけられることも多い。経済的には植民地的収奪構造がむしろ強化され、政治的には本格的な自治要求が19世紀末から20世紀にかけて高まっていくことになる。このように、反乱は失敗に終わったものの、近代インドの社会構造とナショナリズムの形成に深い影響を与えた出来事であった。