METO|価値を測り未来を設計する枠組み

METO

METOはMiddle East Treaty Organizationの略称であり、日本語では中東条約機構と訳されることが多い。第二次世界大戦後の国際秩序が再編されるなか、冷戦構造の下でソ連の南下を抑止する集団安全保障の枠組みとして構想された。実際には1950年代の「バグダッド条約」体制とほぼ重なり、のちに国際機関としての性格を強めたCENTOへと連続していく概念でもある。

名称と位置付け

METOという呼称は、直訳すれば「中東条約機構」であり、北大西洋条約機構(NATO)にならう形で中東に同種の防衛協力を築こうとする発想から生まれた。英米を中心とする西側陣営は、地中海東部からペルシャ湾に至る地域を戦略上の要衝とみなし、石油供給路の安定と対ソ封じ込めを同時に追求した。そのため、集団安全保障の枠組みを地域で整備することが政策課題となった。

成立の背景

戦後の中東は、独立国家の増加と民族主義の高揚、旧宗主国の影響力低下が同時進行し、政治的な流動性が大きかった。西側は、ソ連の影響拡大を警戒しつつ、地域国家の主権や世論にも配慮せざるを得なかった。この局面で、英国は自国の勢力圏維持を図り、米国は封じ込め政策の一環として周辺同盟を重層化させようとした。こうした条件の下でMETOに相当する構想が具体化し、条約という形で制度化されていく。

加盟国と枠組み

中核となったのは1955年に締結されたバグダッド条約で、トルコとイラクの協定を起点に、英国、イラン、パキスタンが参加した。米国は当初から全面加盟はせず、支援と関与を通じて枠組みを下支えしたとされる。理念としては域内防衛協力であるが、実務上は情報協力、軍事援助、共同計画など、対ソ抑止を意識した運用が想定された。

  • 1955年: バグダッド条約の成立
  • 1958年: イラク革命による体制転換
  • 1959年: イラク離脱、CENTOへの改称が進む

主要な目的

METOの目的は、軍事的抑止だけに限定されなかった。地域国家の安定化、軍の近代化、周辺国との連携強化を通じて、政治的な空白を生まないことが重要視された。また、石油産地と海上交通路の安全確保は、戦略と経済の両面で切り離せない課題であった。これらは地政学的観点から理解され、同盟網を通じた「線」としての防衛を形成しようとする意図が読み取れる。

対外援助との関係

枠組みの維持には軍事援助や経済援助が不可欠であった。西側諸国は装備供与や訓練支援を行い、加盟国の安全保障能力を高めることを狙ったが、援助の配分や条件が国内政治の反発を呼ぶこともあった。結果として、同盟の正統性が国内で十分に根付かず、政権交代のたびに立ち位置が揺れやすい構造が残った。

限界と変質

METOの最大の難点は、中東の政治社会的条件が一枚岩ではなかった点にある。アラブ民族主義の高まりは、旧宗主国と結びつく条約体制への警戒感を強め、対外同盟が「外部の影響力」として受け取られやすかった。1958年のイラク革命は象徴的で、枠組みの中心地であったバグダッドが離脱したことで、条約体制は実質的に再編を迫られた。1959年以降はCENTOの名称で語られることが増え、METOは構想名・通称としての性格を帯びていく。

歴史的意義

METOは、中東における冷戦期同盟の試みとして、地域秩序と大国戦略が交差する場を示した。NATOのような恒常的統合防衛に至らなかった一方、同盟形成が国内政治、民族運動、対外援助、資源問題と密接に結びつくことを浮き彫りにした点に意義がある。後年、枠組みは1979年に終焉へ向かうが、その過程は、同盟が軍事合理性だけでは維持されず、国家の正統性や世論、地域アイデンティティとの整合が重要であることを示す事例として位置付けられる。

なお、同時期の中東情勢を理解するには、植民地主義の遺産、資源をめぐる国際関係、そして地域内の政体変動を総合的にみる必要がある。METOは、その結節点に生まれた制度構想であり、条約体制の成否を通じて当時の国際政治の力学を読み解く手がかりとなる。