FIFA ワールドカップ 2026 ドラガン・ストイコビッチ
ドラガン・ストイコビッチ(セルビア語:Драган Стојковић、1965年3月3日生まれ)は、旧ユーゴスラビア・ニシュ出身の元サッカー選手であり、現在はサッカー指導者として知られるセルビアの伝説的人物である。現役時代は攻撃的ミッドフィールダーとして活躍し、その卓越した技術と創造性から「バルカンのマラドーナ」とも称された。愛称は「ピクシー(Piksi)」で、少年時代に見ていたアニメ番組のキャラクター名に由来する。2021年3月にセルビア代表監督に就任し、2022年のカタール・ワールドカップ出場を実現させたが、2026年ワールドカップ欧州予選ではK組3位にとどまり出場権獲得に失敗。2025年10月のアルバニア戦後に辞任を表明し、自身を通じてセルビアサッカーと長年つながりのある日本でもその報は大きく伝えられた。
選手としてのキャリア
ドラガン・ストイコビッチは1981年にラドニチュキ・ニシュでプロデビューを果たし、1986年にレッドスター・ベオグラード(ツルヴェナ・ズヴェズダ)へ移籍した。レッドスターでは120試合に出場して54ゴールを記録し、1987-88シーズンと1989-90シーズンのユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ優勝に貢献した。その非凡なパフォーマンスによって1988年・1989年の2年連続でユーゴスラビア年間最優秀選手に選出され、レッドスターの「第5の星」に輝いた——同クラブの歴代最高選手に与えられる称号でわずか5人しか持たない栄誉である。1990年夏にはマルセイユへ移籍。しかし重篤な膝の怪我により長期離脱を余儀なくされ、マルセイユで実力を十分に発揮するには至らなかった。その後ヴェローナへのローン期間を経て、1994年に名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)へ加入し、アーセン・ヴェンゲル監督に出会うことになる。
名古屋での活躍と日本との絆
1994年から2001年までの7年間にわたって名古屋グランパスでプレーしたドラガン・ストイコビッチは、Jリーグを代表する外国人選手として日本のサッカー史に深く刻まれている。J1リーグ通算184試合に出場して57ゴールを記録し、1995年シーズンにはJリーグ年間最優秀選手賞(MVP)を受賞。同年の天皇杯優勝にも貢献し、名古屋クラブに初のタイトルをもたらした。2001年に現役を引退した後も日本との縁は続き、2008年から2013年まで名古屋グランパスの監督を務めた。監督としてもその手腕は際立っており、2010年シーズンには名古屋をクラブ史上初かつ唯一のJ1リーグ優勝へ導いた。選手・監督の両方でJリーグ年間最優秀賞を獲得した史上初の人物となり、J1リーグ通算103勝という記録を残した。日本への貢献を高く評価され、2015年には日本政府から旭日小綬章を授与されている。
監督時代の伝説的なエピソード
2009年10月17日の横浜F・マリノス戦では、監督でありながら革靴を履いたままベンチからボールを蹴り、52メートル先のゴールへ叩き込むという前代未聞のプレーを披露した。このシュートは審判から遅延行為として退席処分の対象となったが、スタジアムは大いに沸き、現役さながらの技術が改めて証明された出来事として語り継がれている。
ユーゴスラビア代表での実績
ドラガン・ストイコビッチはユーゴスラビア代表(後にFRユーゴスラビア代表)として84試合に出場し、15ゴールを記録した。1990年のイタリア・ワールドカップでは輝かしい活躍を見せ、準々決勝でのアルゼンチン戦(PK戦敗退)では2ゴールを挙げてチームをベスト8に導き、大会ベストイレブンにも選出された。1998年フランス・ワールドカップではキャプテンとしてチームを牽引し、ベスト16進出を果たした。代表のキャリアでは1984年ロサンゼルス五輪銅メダル、EURO 2000ベスト8など輝かしい実績が並ぶ。なお、1992年のEURO本大会では、ユーゴスラビアが内戦を理由として国連の制裁措置を受けて直前に出場停止となり、予選突破の実力がありながら本大会の舞台に立てないという理不尽な経験も持つ。
- 1984年ロサンゼルス五輪:銅メダル
- 1990年イタリア・ワールドカップ:ベスト8、大会ベストイレブン選出
- 1998年フランス・ワールドカップ:ベスト16(キャプテン)
- EURO 2000:ベスト8
- ユーゴスラビア代表通算:84試合出場・15ゴール
指導者キャリアの全体像
現役引退後のドラガン・ストイコビッチは、まずユーゴスラビア(後のセルビア・モンテネグロ)サッカー協会会長を2001年から2005年まで務め、UEFAおよびFIFAの技術委員会メンバーとしても国際サッカー行政に携わった。2005年から2007年にはレッドスター・ベオグラードの会長職に就き、その後監督への転身を果たした。名古屋での6年間(2008〜2013年)に続き、2015年から2020年まで中国スーパーリーグの広州城FCを率いた。広州では年間を通じた守備の構築に苦戦し目立ったタイトルは得られなかったが、5シーズンにわたって指揮を執った。そして2021年3月3日——奇しくも自身の56回目の誕生日に——セルビア代表監督に就任した。
セルビア代表監督就任と2022年ワールドカップ
2021年3月にセルビア代表監督に就任したドラガン・ストイコビッチは、早速その手腕を発揮する。欧州予選グループAの最終節でポルトガルを破り、グループ首位でカタール・ワールドカップ出場権を獲得した。本大会のグループGではブラジル・カメルーン・スイスと同組となったが、主力のアレクサンダル・ミトロビッチやドゥシャン・ヴラホビッチが万全の状態ではなかった影響もあり、1分2敗でグループ最下位に終わり早期敗退を余儀なくされた。また2024年にはEURO 2024へのセルビア出場を実現させた——旧ユーゴスラビアとして臨んだ2000年大会以来24年ぶりのEURO本大会出場という歴史的快挙であり、この功績によってセルビアサッカー協会との契約が2026年まで延長された。
2026年ワールドカップ予選の苦闘と辞任
ドラガン・ストイコビッチ率いるセルビアは、2026年ワールドカップ欧州予選でK組に入り、イングランド・アルバニア・ラトビア・アンドラと争った。予選を通じて苦戦が続き、2025年9月時点でイングランドが圧倒的な首位をキープするなか、セルビアは2位・アルバニアを追う3位の位置にとどまった。さらに予選期間中にはセルビアサポーターによる人種差別的な行為が問題視され、UEFA制裁としてイングランド戦ではホームスタジアムのホームエンド15%への入場が禁止されるという事態も招いた。そのイングランド戦は0-5と惨敗を喫し、チームの士気に大きな打撃を与えた。迎えた2025年10月10日のホームでのアルバニア戦は「6ポイントマッチ」と位置づけられたが、0-1で敗戦。試合後の記者会見でドラガン・ストイコビッチは「全責任を負う。責任を負うのは私だけだ」と述べ、辞任を表明した。最終的にセルビアは勝ち点7でK組3位に終わり、FIFA ワールドカップ 2026 欧州予選敗退が確定した。これはセルビアにとって3大会連続となるワールドカップ出場権の喪失を意味する。
K組最終順位と予選の総括
セルビアが属した欧州予選K組は最終的に以下の順位となった。FIFA ワールドカップ 2026への出場権を獲得したのは首位のイングランドのみであり、2位のアルバニアはプレーオフ進出、3位のセルビアはそこにも届かずに予選敗退となった。2022年大会でグループ最下位に終わり、2024年EUROでもグループリーグ敗退(1勝1分1敗)と結果が伴わないなかで予選に臨んだセルビアは、ドゥシャン・ヴラホビッチやアレクサンダル・ミトロビッチという世界トップクラスの攻撃陣を擁しながら、チームとして機能させる戦術的安定性を欠いた。
| 順位 | 国 | 勝 | 分 | 負 | 勝ち点 | 得失点差 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1位 | イングランド | 5 | 0 | 0 | 15 | +13 |
| 2位 | アルバニア | 3 | 2 | 1 | 11 | +3 |
| 3位 | セルビア | 2 | 1 | 3 | 7 | -2 |
| 4位 | ラトビア | 1 | 2 | 3 | 5 | -4 |
| 5位 | アンドラ | 0 | 1 | 5 | 1 | -10 |
日本サッカーへの遺産
ドラガン・ストイコビッチが日本のサッカー文化に与えた影響は計り知れない。1994年のJリーグ黎明期に来日し、当初は「お荷物チーム」と称された名古屋で1995年に天皇杯を獲得。MVPとして圧倒的なパフォーマンスを見せたことで、外国人スター選手がJリーグの水準を飛躍的に高める先例となった。趣味は盆栽、好物は納豆という徹底した親日家としても広く知られ、公式会見で日本語を使用するなどその姿勢は一貫している。監督退任後の2015年に授与された旭日小綬章は「日本・セルビア間の相互理解の促進及び日本のサッカー界の発展への寄与」を理由とするものであり、FIFA ワールドカップという国際サッカーの文脈においても、ストイコビッチが日本とセルビアをつなぐ架け橋的存在であり続けていることを示している。
プロフィールと人物像
ドラガン・ストイコビッチは身長175センチ、体重72キロ。ニシュ生まれでセルビア語を母語とし、英語・フランス語・イタリア語にも堪能で、日本語も多用する。「ピクシー」という愛称は幼少期に親しんだアニメ「ピクシー&ディクシー」の主人公のネズミに由来する。少年時代からのアイドルはフランス代表のミシェル・プラティニであり、柔らかいボールコントロールを習得したのはニシュ近郊のストリートサッカーで培われたものだとも語られる。かつてユーゴスラビア代表で共にプレーした盟友シニシャ・ミハイロビッチが2022年12月に急逝した際には、サッカー界の仲間として深い追悼の意を表した。選手・指導者・協会役員という三つの立場でセルビアと日本双方のワールドカップ史に名を刻んだ存在として、今後も語り継がれていくことは間違いない。
経歴まとめ
- 選手歴:ラドニチュキ・ニシュ(1981〜1986)→ レッドスター・ベオグラード(1986〜1990)→ マルセイユ(1990〜1994、ヴェローナへローン含む)→ 名古屋グランパスエイト(1994〜2001)
- ユーゴスラビア代表:84試合・15ゴール(1983〜2001)
- 指導者歴:名古屋グランパス監督(2008〜2013)→ 広州城FC監督(2015〜2020)→ セルビア代表監督(2021〜2025)
- 主な個人タイトル:Jリーグ年間最優秀選手(1995)、Jリーグ年間最優秀監督(2010)、旭日小綬章(2015)、1990年ワールドカップ大会ベストイレブン
セルビアが欧州予選K組3位に終わった事実は、ヴラホビッチやミトロビッチといった世界水準のストライカーを擁しながら組織として機能しきれなかった悔恨として残る。ドラガン・ストイコビッチ自身が「全責任は私にある」と言い切って辞表を提出したその姿は、選手時代から一貫してきた気骨ある人格をよく表している。北中米で繰り広げられるFIFA ワールドカップ 2026の舞台にセルビアの姿はないが、「ピクシー」の足跡は日本とセルビアのサッカー史に永遠に刻まれている。
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