漢陽|朝鮮王朝の王都として栄えた歴史都市

漢陽

漢陽(かんよう、ハニャン)は、現在の韓国の首都であるソウルの旧称であり、李氏朝鮮時代(1392年 – 1897年)の約500年間にわたり首都として機能した歴史的な都市である。古くは百済の初期の都が置かれた地域とされ、高麗時代には南京と呼ばれて重要視されていた。14世紀末に李成桂が朝鮮王朝を建国したのち、風水地理説に基づきこの地が新たな都として選定された。周囲を北岳山、仁王山、南山、駱山という四つの山に囲まれ、中央の南側を巨大な水脈である漢江が流れるという地形は、外敵からの防衛と物資の水運の両面において極めて有利な条件を備えていた。日本史においては、安土桃山時代に豊臣秀吉が引き起こした文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、日本軍の最大の攻略目標となった都市として知られている。日本の大軍が朝鮮半島に上陸すると、防衛体制の整っていなかった朝鮮軍を打ち破ってまたたく間に北上し、わずかな期間で漢陽は陥落することとなった。この戦乱により、都市は激しい戦火に見舞われることとなる。

李氏朝鮮の建国と計画都市としての発展

1392年に高麗を倒して李氏朝鮮を開国した初代国王の李成桂(太祖)は、旧来の仏教勢力や貴族勢力の権基が根強い開城(ケソン)から新たな地への遷都を画策した。いくつかの候補地の中から、風水地理において理想的とされる「背山臨水(背後に山を背負い、前方に水を臨む)」の条件を完璧に備えた現在のソウル盆地が選ばれ、1394年に漢陽への遷都が正式に断行された。遷都直後から、儒教の理念に基づく壮大な計画都市としての建設が開始された。正宮である景福宮をはじめとする豪壮な宮殿群や、歴代国王の位牌を祀る宗廟、土地と穀物の神を祀る社稷などが次々と建設された。さらに、都市の防衛を強化するために周囲の稜線に沿って長大な城壁(漢陽都城)が築かれ、東西南北には崇礼門(南大門)や興仁之門(東大門)などの四大門と四小門が整備された。これにより、漢陽は李氏朝鮮における政治、経済、文化、外交の絶対的な中心地として発展を遂げていくこととなる。

文禄・慶長の役と漢陽の陥落

日本史の観点から漢陽が歴史の表舞台で大きくクローズアップされるのは、1592年(文禄元年)から始まる文禄・慶長の役においてである。天下統一を果たした日本の指導者は、明への侵攻を企図し、その通過点として朝鮮に対して「仮途入明(明に入るために道を貸せ)」を要求した。これが拒絶されると、約16万の日本の大軍が朝鮮半島南部の釜山に上陸した。破竹の勢いで北上を続ける日本軍に対し、小西行長や加藤清正らが率いる先鋒部隊は、上陸からわずか20日余りという驚異的なスピードで首都である漢陽に迫った。当時の朝鮮朝廷では長らく平和が続いていたため大規模な軍事侵攻に対する防衛体制が全く整っておらず、正規軍は各地で総崩れとなった。事態の深刻さを悟った国王の宣祖は、民衆の非難を浴びながらも都を捨てて北方の平壌、さらに国境の義州へと避難を余儀なくされた。

日本軍の入城と占領統治の開始

国王が逃亡して主を失った後の漢陽には、先鋒の部隊が一番乗りを果たして入城し、続いて黒田長政などの名だたる諸将が次々と無血入城を果たした。日本軍はここを拠点としてさらに北上を図り、朝鮮半島全土の制圧を目指した。漢陽には宇喜多秀家を総大将として配置し、都の守備と兵站拠点としての機能の維持に努めた。しかし、緒戦の圧倒的な勝利にもかかわらず、明からの大規模な援軍の到着や、李舜臣が率いる朝鮮水軍による南部の補給線の分断、さらには各地で蜂起した義兵によるゲリラ的な抵抗により、日本軍の戦局は徐々に悪化していくこととなる。

碧蹄館の戦いと日本軍の撤退

1593年初頭、北方の拠点である平壌を奪還した明と朝鮮の連合軍が、奪われた首都である漢陽に向けて大規模な南下を開始した。これを迎撃するため、小早川隆景や毛利輝元らが率いる日本軍は、漢陽郊外の碧蹄館において明軍と激突した。この碧蹄館の戦いにおいて日本軍は奮戦し、明軍を撃退して局地的な勝利を収めた。しかし、日本軍の兵糧不足は深刻を極めており、さらに都の中で疫病が蔓延したことにより兵員の消耗は激しく、もはや長期の占領統治は不可能な状態に陥っていた。最終的に、石田三成らが明の使者と和議の交渉を行い、日本軍は漢陽から完全に撤退して南部の慶尚道沿岸地域へと兵を引くこととなった。この一連の激しい戦乱と、撤退時の混乱により、景福宮をはじめとする多くの宮殿や公的建築物が焼失し、都市は甚大な被害を受けた。

戦乱後の復興と近代への歩み

戦乱が完全に収束した後、灰燼に帰した漢陽の復興には長い年月を要することとなった。焼失した正宮の景福宮は財政難のため長らく放置され、離宮であった昌徳宮が再建されて政治の中心となった。その後、李氏朝鮮後期の文化の黄金期である英祖や正祖の時代を経て、都市は再び活気を取り戻していった。19世紀後半になると、欧米列強や日本の帝国主義的な進出により朝鮮は開国を迫られ、漢陽にも近代化の波が押し寄せる。1897年に国号が大韓帝国と改められると、漢城府と呼ばれるようになり、都市名としての漢陽はその役割を終えつつあった。1910年の韓国併合により日本の統治下に入ると、行政区画の改編に伴って「京城(けいじょう)」と改称された。そして1945年の第二次世界大戦後の独立に伴い、固有語に由来する現在の「ソウル」という名称が正式に定着したのである。

時代 主な出来事
1394年 李成桂が漢陽へ遷都、景福宮などの建設開始
1592年 文禄の役勃発、日本軍が漢陽を占領
1593年 碧蹄館の戦い、日本軍が漢陽から撤退
1897年 大韓帝国の成立
1910年 韓国併合に伴い「京城」と改称

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