恩賞方|建武の新政で恩賞を掌る機関

恩賞方

恩賞方(おんしょうがた)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけて、戦功の調査および恩賞の配分を掌った行政・司法機関である。元弘3年(1333年)、後醍醐天皇による建武の新政の開始に伴い、討幕に貢献した武士や公家たちの論功行賞を公平かつ迅速に行うために設置された。それまでの歴史において、これほど大規模かつ組織的に「恩賞」を専門に扱う役所が設けられた例はなく、新しい政権の正当性を示す重要な役割を担っていた。しかし、膨大な数の申請に対する事務処理の遅延や、裁定の不公平さが目立ったことで、結果として武士層の不満を爆発させ、建武政権の短命に終わる大きな要因となった。

設置の背景と初期の構成

恩賞方が設立された最大の目的は、倒幕の軍事行動に参加した諸将が提出する「軍忠状」を審査し、没収された旧北条氏の領地(北条領)を再分配することであった。鎌倉幕府の滅亡直後、京都には自己の軍功を主張する武士たちが全国から殺到し、所領の安堵や新規給与を求めて混乱を極めていた。当初、この業務は記録所が兼任していたが、後醍醐天皇は実務の専門化を図るため、独立した機関として恩賞方を組織した。初代の責任者には洞院実世などの有力な公家が任命されたが、これは建武政権が公家主導の政治を目指していたことの象徴でもあった。

四番制の導入と機能の変遷

建武元年(1334年)5月、恩賞方は業務の滞りを解消するため、全国を4つの管区に分ける「四番制」へと改編された。これは土地紛争を扱う雑訴決断所の組織形態に倣ったものであり、各番には公家と武士の双方が職員として配置された。この時期の恩賞方は、単なる事務機関にとどまらず、天皇の裁可を仰ぐための諮問機関としての性格も強めていた。しかし、決定の最終権限は常に後醍醐天皇にあり、天皇自らが発する綸旨(りんじ)が優先されたため、恩賞方が下した専門的な判断が政治的配慮によって覆されることも少なくなかった。

恩賞の不公平と武士の失望

恩賞方の運営において最大の批判を浴びたのは、その審査基準の不明確さと不公平さであった。当時の政権内では、実際に戦場で血を流した武士よりも、後醍醐天皇に近い公家や寵臣、あるいは僧侶などに肥沃な土地が優先的に配分される傾向があった。例えば、足利尊氏や新田義貞、さらには武者所で警護にあたった武士たちの部下であっても、有力な縁故がない者は何ヶ月待っても恩賞が下りないといった事態が常態化した。このような「公家偏重」の姿勢は、命を懸けて戦った武士たちの心を建武政権から離反させる決定的な打撃となった。

建武年間記にみる混乱の様相

当時の混乱ぶりは、史料「建武年間記」における「二条河原の落書」などからも見て取れる。恩賞方の門前には、連日のように不満を訴える武士たちが押し寄せ、賄賂や有力者への「運動」が公然と行われるようになった。また、一つの領地に対して複数の武士に恩賞として与えてしまうという「二重給与」のミスも頻発し、恩賞方の権威は失墜した。本来、公正な裁判と分配を行うはずの機関が、かえって社会の不穏を煽る結果となった事実は、中世社会における土地の重要性を政権が過小評価していたことを物語っている。

室町幕府における恩賞方の継承

建武政権が崩壊した後も、足利尊氏が創設した室町幕府において恩賞方の名は存続した。尊氏は建武政権の失敗を教訓とし、武士の支持を確実にするため、側近の兵法家や奉行人を重用して恩賞事務の迅速化を図った。初期の室町幕府では高師直が恩賞方の頭人を務め、実力主義に基づく迅速な加恩を行った。しかし、時代が下るにつれて将軍の権限が確立されると、恩賞の決定は将軍直属の諮問会議である「御前沙汰」に吸収されていった。これにより、室町中期の恩賞方は実務権限を持たない名誉職に近い存在へと変貌した。

歴史的意義と評価

恩賞方の歴史は、日本の中世国家が「武士の功績をいかにシステムとして評価し、報いるか」という難題に直面した過程そのものである。後醍醐天皇の試みは、それまで各主君が個人的に行っていた恩賞を国家的な一元管理下に置こうとした革新的な試みであったが、その実務能力と政治的中立性が伴わなかった。結果として、恩賞方の機能不全は武家政権の再興を促すきっかけとなり、日本の政治構造が公家から武士へと決定的に移行する過渡期の象徴として、歴史学的に極めて重要な位置を占めている。

項目 詳細内容
設置主体 建武中興政府(後醍醐天皇)
主な任務 軍忠状の審査、論功行賞、北条氏遺領の配分
組織体制 当初は上卿制、後に四番制(公武合議)
後継組織 室町幕府恩賞方(後に形式化)
失敗の主因 事務処理の遅延、公家偏重の裁定、二重給与の発生