大内兵衛
大内兵衛(おおうち・ひょうえ、1888年8月29日 – 1980年5月1日)は、日本の大正から昭和期にかけて活動した代表的な経済学者である。専門は財政学であり、日本におけるマルクス主義経済学の権威として知られる。東京帝国大学教授、法政大学総長などを歴任し、戦前・戦後の学界および言論界に多大な影響を及ぼした。兵庫県津名郡(現在の淡路市)に生まれ、厳格な学問的態度とリベラルな精神を持ち合わせ、権力による学問への弾圧に抗い続けた人物である。彼の研究は、単なる数値としての財政分析に留まらず、社会構造や階級関係を視野に入れた「財政学」の体系化を目指した点に大きな特徴がある。また、戦後の日本経済の再建や、平和問題、統計制度の整備など、多岐にわたる分野で指導的な役割を果たした。
生い立ちと初期の官界・学界キャリア
大内兵衛は、兵庫県の裕福な農家に生まれた。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学経済学科(現在の東京大学経済学部)に入学した。大学時代には、当時の進歩的な経済学者であった河上肇などの影響を受け、社会問題への関心を深めていった。1913年に卒業後、大蔵省に入省したが、学問への情熱を捨てきれず、わずか数年で退官して母校の助教授となった。その後、ドイツやイギリスへの留学を経て、欧州の最先端の経済理論を吸収した。帰国後は、マルクス経済学の視点を取り入れた財政学の研究に従事し、古典的な財政学に社会科学としての深みを与えた。彼の講義は明快かつ論理的であり、多くの学生を惹きつけた。
マルクス主義経済学と財政学の体系化
大内兵衛の最大の功績の一つは、日本における近代的な財政学の確立である。彼は、国家の財政活動が単なる収支の管理ではなく、資本主義社会の維持と矛盾を反映したものであると考えた。著書『財政学』は、その理論的集大成であり、長年にわたり経済学徒のバイブルとして読み継がれた。彼はマルクス主義の理論を教条的に受け入れるのではなく、日本の実状に合わせて批判的に摂取し、実証的な分析を重視した。この姿勢は、後に「大内財政学」として、有沢広巳や宇野弘蔵といった次代を担う経済学者たちに大きな影響を与えることとなった。彼の研究は、税制、公債、予算制度など多方面に及び、日本の近代化プロセスにおける財政の役割を解明した。
人民戦線事件と学問への弾圧
昭和期に入り、日本が軍国主義の道を歩み始めると、大内兵衛のリベラルな姿勢や社会主義への理解は、国家権力にとって危険視されるようになった。1938年、いわゆる「第二次人民戦線事件」により、彼は教授グループの一員として検挙された。この事件により、彼は東京帝国大学を休職処分となり、長期間にわたる裁判を余儀なくされた。しかし、彼は法廷においても自らの学問的信念を曲げることはなかった。最終的には無罪を勝ち取ったものの、終戦まで教壇に立つことは許されず、不遇の時代を過ごした。この時期の苦難は、彼の平和主義と民主主義への信念をより強固なものにし、戦後の言論活動の原動力となった。
戦後復興と法政大学における教育改革
1945年の敗戦後、大内兵衛は東京大学教授に復職した。戦後の混乱期において、彼は経済安定本部の顧問などを務め、インフレーション対策や経済再建策の策定に尽力した。1950年には法政大学の総長に就任し、戦後の同大学の基盤を築いた。総長としての彼は、「自由な学風」の確立を旗印に掲げ、学問の自由と大学の自治を徹底して守り抜いた。法政大学のキャンパス再開発や学部新設などのハード面のみならず、優れた研究者を招聘して教育内容を充実させるなどのソフト面においても多大な貢献を果たした。彼が総長を務めた期間は、法政大学が「開かれた大学」として飛躍的に発展した時期と重なっている。
平和問題と政治・社会へのコミットメント
大内兵衛は、学界の重鎮としてだけでなく、社会の良心としても積極的に発言を続けた。冷戦構造が激化する中、彼は安倍能成や岩波雄二郎らと共に「平和問題談話会」を結成し、中立主義と非武装の重要性を説いた。また、日本社会党の理論的支柱としても活動し、労働運動や社会保障制度の整備を支援した。彼は統計学の重要性にも着目し、統計委員会の委員長として日本の統計制度の近代化を主導した。これは、正確なデータに基づいた科学的な政治判断が必要であるという彼の信念に基づいたものであった。彼の活動範囲は、経済学という専門領域を超え、日本の民主主義の根幹を支える広範な分野に及んでいた。
大内兵衛の著作と主な経歴
大内兵衛は、膨大な著作を残しており、そのどれもが緻密な論理と流麗な文体で知られている。代表作である『財政学』上下巻のほか、『日本財政論』、『経済学五十年』、『統計学』など、多くの名著がある。また、マルクスの『資本論』の翻訳(岩波文庫版)を監修し、広く一般に紹介した功績も大きい。彼の経歴は、日本の近代知性史そのものであると言っても過言ではない。
| 年次 | 主な事項 |
|---|---|
| 1888年 | 兵庫県に生まれる。 |
| 1913年 | 東京大学を卒業し、大蔵省に入省。 |
| 1919年 | 東京帝国大学経済学部助教授に就任。 |
| 1938年 | 人民戦線事件により検挙、休職。 |
| 1945年 | 東京大学に復職、経済学部長などを務める。 |
| 1950年 | 法政大学総長に就任(〜1959年)。 |
| 1980年 | 91歳で死去。 |
晩年とその影響
晩年の大内兵衛は、文化功労者に選ばれるなど、その功績が公に認められた。しかし、彼は権威に安住することなく、常に批判的精神を持ち続け、日本の進むべき道を問い続けた。彼の門下からは、有沢広巳をはじめとする多くの優れた学者が輩出され、戦後日本の経済政策や社会思想の形成に寄与した。彼の「学問は人生そのものであり、社会を変革する力である」という教えは、今なお多くの後進に影響を与え続けている。日本の近代化が抱えた矛盾を冷静に見つめ、人間的な社会の実現を夢見た彼の思想は、現代の複雑な社会問題に対峙する上でも重要な示唆を与えている。