馬市
馬市とは、馬の売買や交換を目的として特定の時期や場所に開設された市場のことである。古代から近世、さらには近代にかけて、日本各地で馬は交通手段、農耕、軍事の両面で極めて重要な役割を果たしており、その供給源となる馬市は地域経済や文化の拠点としての機能も有していた。特に良質な馬を産出する地域では大規模な定期市が開催され、多くの商人や武士、農民が集まり賑わいを見せた。本項では、日本における馬市の歴史的変遷、主要な開催地、およびその社会的役割について詳述する。
馬市の歴史的起源と変遷
日本史において、馬の取引自体は古墳時代に朝鮮半島から馬が渡来して以来、断続的に行われてきたと考えられている。律令制下では、官営の牧(まき)が設置され、軍馬や貢上馬の管理が行われたが、民間での自由な取引が一般化するのは中世以降である。鎌倉時代に入ると、武士階級の台頭に伴い騎馬戦の重要性が高まり、軍馬としての需要が急増した。これにより、主要な街道の宿場町や寺社の門前などで、定期的に馬の取引を行う馬市が自然発生的に成立していった。戦国時代には、大名たちが軍事力を強化するために優秀な馬を確保しようと努め、領内の馬市を保護・奨励する政策をとることも珍しくなかった。
江戸時代における馬市の隆盛
江戸時代に入ると、社会の安定とともに馬市は組織化され、幕府や諸藩の管理下で大規模に展開されるようになった。江戸幕府を開いた徳川家康は、軍事的な必要性から馬の生産を重視し、各地の産馬地を整備した。江戸市内では浅草の「馬道」付近などで定期的に馬市が開かれ、奥州(現在の東北地方)から運ばれてきた「南部駒」などのブランド馬が取引された。特に、十二月に開催される市は「世田谷ボロ市」などのように、農具や生活用品とともに馬が売買される場として庶民の間でも広く認知されていた。馬市は単なる商業施設に留まらず、馬の健康状態を確認し、博労(ばくろう)と呼ばれる専門の仲介人が価格を交渉する独特の商慣習が発達した場でもあった。
主要な開催地と産地
日本各地には、その土地の気候や地形を活かした名高い産馬地と、それに付随する有名な馬市が存在していた。以下の表は、近世から近代にかけて著名であった主要な馬市と産地の特徴をまとめたものである。
| 地域 | 主要な産地 | 特徴・有名な市 |
|---|---|---|
| 東北地方 | 南部(岩手・青森) | 「南部駒」で知られ、盛岡や三戸での馬市は全国最大規模を誇った。 |
| 関東地方 | 下総(千葉) | 幕府直轄の牧が多く、小金原の野馬追や市場が盛んであった。 |
| 中部地方 | 信濃(長野) | 木曽馬の産地として知られ、街道沿いの宿場町で頻繁に馬市が開催された。 |
| 九州地方 | 薩摩(鹿児島) | 軍馬としての性能が高い馬を産出し、独自の取引慣習が存在した。 |
近代化と馬市の変容
明治時代に入ると、西洋からの種馬導入により馬匹改良が推し進められ、馬市の役割も変化していった。富国強兵を掲げる政府は、軍馬の質を向上させるために「馬匹去勢法」などの法令を整備し、公的な市場での厳格な検査を求めた。また、産業の発展に伴い、従来の農耕馬に加えて、物流を支える輓馬(ばんば)や、競馬の普及による競走馬の需要も高まった。しかし、20世紀に入り自動車や鉄道などの機械化が進むと、交通・物流手段としての馬の重要性は次第に低下していった。これに伴い、伝統的な形態の馬市は徐々に姿を消し、現代では家畜市場やサラブレッドの競り(セリ)へとその形態を変えて存続している。
馬市と農業経済
馬市は日本の伝統的な農業経済と密接に結びついていた。中世から近世にかけて、牛馬は農作業における貴重な動力源であり、農民にとって馬を所有することは生産力を左右する重大な事柄であった。春の耕作期を前に開催される馬市では、多くの農民が新たな馬を求め、あるいは老いた馬を売却して若い馬に買い換えるなどの取引が行われた。このような需要に応えるため、馬市には農具や肥料、苗木などを扱う露店も併設されることが多く、地域社会における総合的な経済プラットフォームとして機能していた。馬市の開催日は農閑期や祭礼の時期に合わせられることが一般的であり、農民たちの情報交換や娯楽の場としての側面も強かった。
信仰と文化に見る馬市
- 馬頭観音信仰:馬の無病息災を祈る馬頭観音は、馬市の会場近くや産馬地に多く祀られ、取引の安全を見守る守護神とされた。
- 駒形神社:東日本を中心に分布する駒形神社は、馬の守護神を祀り、祭礼の際には境内で馬市が立ったり、馬術の披露が行われたりした。
- 絵馬の奉納:良い馬との縁を願う者や、取引の成立を感謝する博労たちが、寺社に馬を描いた板(絵馬)を奉納する習慣が定着した。
- 民俗行事:福島県の「相馬野馬追」のように、馬市や牧の管理から発展した武術行事が、現在も伝統文化として継承されている。
以上のように、馬市は単なる馬の取引場所という枠を超え、日本の宗教観や民俗文化とも深く共鳴し合ってきた。馬を家族のように大切にする「愛馬精神」は、馬市を通じて育まれたものでもあり、その精神性は現代の馬事文化にも色濃く反映されている。