上杉禅秀の乱|室町幕府の関東支配を揺るがす大乱

上杉禅秀の乱

上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)とは、応永23年(1416年)10月から翌応永24年(1417年)1月にかけて、関東地方で発生した大規模な反乱である。前関東管領の上杉禅秀(上杉氏憲)が、第4代鎌倉公方である足利持氏に対して挙兵したこの政変は、鎌倉府を一時崩壊させ、室町幕府をも巻き込む事態へと発展した。本乱は、関東における鎌倉公方関東管領の対立を象徴する事件であり、その後の関東情勢や幕府と鎌倉府の関係性に決定的な影響を及ぼした室町時代の重要な転換点の一つとして位置付けられている。

乱の背景と原因

乱の直接的な原因は、鎌倉公方である足利持氏と、その補佐役であった関東管領の上杉禅秀との間の深刻な対立にある。応永16年(1409年)に若くして公方に就任した持氏は、自らの権力基盤を強化するために強硬な政治姿勢を取り、従来の慣例を無視して領地没収や人事介入を行った。これに対し、犬懸上杉家(いぬかけうえすぎけ)の当主として実務を取り仕切っていた禅秀は反発を強め、応永22年(1415年)に管領職を辞任する事態となった。後任に山内上杉家の上杉憲基が就任したことで、犬懸家と山内家の対立も表面化し、持氏への不満を抱く関東の諸将や、幕府内で冷遇されていた将軍義持の異母弟・足利義嗣らが禅秀と結託したことが、上杉禅秀の乱への導火線となった。

蜂起と鎌倉陥落

応永23年(1416年)10月、上杉禅秀は下野国の足利満隆(持氏の叔父)や甲斐守護の武田信満、さらには千葉氏、岩松氏、那須氏といった関東の有力国人衆を糾合し、鎌倉に向けて電撃的な侵攻を開始した。不意を突かれた足利持氏および関東管領の上杉憲基は、十分な防戦体制を整えることができず、鎌倉を放棄して敗走を余儀なくされた。持氏は相模国箱根を経て、自らの同盟者であった駿河守護・今川範政を頼って駿河国へと逃れ、一方の憲基は越後国へと落ち延びた。この段階で禅秀側は鎌倉を制圧し、足利満隆を新たな公方に据えるなど、一時は東国の支配権を完全に掌握したかのように見えた。しかし、この軍事行動は中央の室町幕府の権威を脅かすものとみなされ、事態は風雲急を告げることとなる。

幕府の介入と乱の鎮圧

当初、第4代将軍の足利義持は、持氏の独断専行を苦々しく思っていたこともあり、静観の構えを見せていた。しかし、反乱勢力の中に自らの地位を脅かす足利義嗣が関与している疑いが強まったこと、また鎌倉府が完全に崩壊することは幕府にとっても東国支配の不安定化を招くと判断し、一転して持氏の支持を決定した。幕府は隣接する守護大名に対し、禅秀討伐の命を下した。これを受けて、駿河の今川範政や越後の上杉房方、信濃の小笠原政康らが一斉に動員され、鎌倉へ向けて進撃を開始した。応永24年(1417年)1月、幕府軍の圧倒的な物量と攻勢の前に禅秀側の軍勢は瓦解し、追い詰められた上杉禅秀は鶴岡八幡宮の雪ノ下で、足利満隆や一族と共に自害して果てた。これにより、組織的な抵抗は終息し、持氏が鎌倉へ帰還することで上杉禅秀の乱は一応の結末を迎えた。

主要な関係人物と勢力図

勢力 主要人物 役割・動向
鎌倉府側 足利持氏 第4代鎌倉公方。乱により駿河へ逃亡するも幕府の支援で復帰。
反乱軍側 上杉氏憲(禅秀) 前関東管領。犬懸上杉家当主。乱の首謀者として自害。
反乱軍側 足利満隆 持氏の叔父。禅秀により公方候補として担がれる。
幕府側 足利義持 室町幕府第4代将軍。最終的に持氏支援を決定し討伐軍を派遣。
支援勢力 今川範政 駿河守護。逃亡した持氏を保護し、討伐軍の主力として活躍。

乱の歴史的意義と長期的影響

上杉禅秀の乱は、単なる地方の反乱に留まらず、その後の日本中世史に甚大な足跡を残した。第一に、この乱を通じて関東管領の主流派は犬懸上杉家から山内上杉家へと完全に移行し、犬懸家は没落の一途をたどった。第二に、乱を生き延びた足利持氏は、自分を助けた幕府に対して感謝するどころか、介入を受けたことへの反発から中央との対立をさらに深めていくこととなった。これは後に、将軍足利義教との衝突を招く「永享の乱」の遠因となった。また、禅秀側に加担した国人衆への過酷な報復人事は、関東各地に新たな火種を撒き散らし、享徳の乱へと続く長い「享徳の動乱」の伏線となった。上杉禅秀の乱は、室町幕府による地方統治の限界と、戦国時代へ向かう関東特有の力学を浮き彫りにした事件であったと言える。