岩崎弥之助|三菱の基盤を築いた二代目社長

岩崎弥之助

岩崎弥之助(いわさき やのすけ)は、明治時代の日本を代表する実業家であり、三菱財閥の第2代総帥として、その基盤を盤石なものにした人物である。土佐藩出身の実業家、岩崎弥太郎の実弟として生まれ、兄の急逝後に三菱の経営を引き継いだ。単なる事業継承にとどまらず、海運業中心だった三菱を、炭鉱、鉱山、造船、銀行、地所など多角的な事業群を擁する巨大コンツェルンへと脱皮させた功績は極めて大きい。また、第4代日本銀行総裁を務めるなど公的な役職でも手腕を発揮し、近代日本の産業構造の形成に多大なる影響を及ぼした。

生い立ちと修養時代

嘉永4年(1851年)、土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)にて、岩崎弥次郎と美和の三男として誕生した。兄の弥太郎とは16歳の年の差があり、幼少期からその才気を見込まれていた。幕末から明治維新にかけての激動期、岩崎弥之助は兄の支援を受けながら学問に励み、慶應義塾に学んだ後、明治5年(1872年)にはアメリカ合衆国へ留学した。ニューヨークで西洋の合理的な経営手法や社会制度を肌で感じた経験は、帰国後の三菱経営において大きな糧となった。帰国後、土佐藩の重鎮であった後藤象二郎の長女・早苗と結婚し、政財界との繋がりを強固なものにした。

三菱第2代総帥としての手腕

明治18年(1885年)、兄・弥太郎が病没すると、岩崎弥之助は34歳の若さで三菱の全権を掌握した。当時の三菱は、共同運輸会社との熾烈な海運競争により疲弊しており、存亡の機に立たされていた。岩崎弥之助は、政府の仲介による共同運輸との合併を受け入れ、日本郵船を誕生させることで海運の独占から脱却するという苦渋の決断を下した。しかし、これによって得た資本を背景に、鉱山業や造船業への本格的な投資を開始し、「海から陸へ」という大胆な経営方針の転換を成し遂げた。この多角化戦略が、後の三菱財閥の安定的な成長を支える柱となったのである。

事業の多角化と組織改革

岩崎弥之助は、経営の近代化を推し進めるために組織の再編を行い、明治19年(1886年)に「三菱社」を設立した。それまで家業的な色彩が強かった経営を、各部門に責任を持たせる近代的な分権組織へと移行させた。特に長崎造船所の払い下げを受け、最新鋭の技術を導入して東洋随一の造船拠点へと成長させたことは、日本の重工業化における先駆的な事例となった。また、筑豊炭田の買収や佐渡鉱山の経営など、エネルギー・資源の確保にも注力し、製造から物流に至るまでのバリューチェーンを構築した。

丸の内開発と「ロンドン街」

今日、日本を代表するオフィス街である丸の内の基礎を築いたのも岩崎弥之助の決断によるものである。明治23年(1890年)、政府から広大な陸軍省練兵場跡地(現在の丸の内エリア)の払い下げを打診された際、周囲が猛反対する中で岩崎弥之助は128万円という当時としては破格の巨費を投じて購入を決断した。当時は「三菱ヶ原」と呼ばれた荒地であったが、ここに赤レンガ造りのオフィスビル群を建設し、英国風の景観を持つ近代的なビジネスセンターへと変貌させた。これが後の「一丁倫敦(ロンドン街)」の由来となり、三菱の不動産事業の大きな収益源となった。

日本銀行総裁への就任と公的貢献

実業家としての実績が評価され、岩崎弥之助は明治29年(1896年)、第4代日本銀行総裁に就任した。当時は日清戦争後の金本位制への移行という難局にあり、岩崎弥之助は通貨価値の安定と金融システムの近代化に尽力した。民間出身の総裁として、渋沢栄一らと共に経済界のリーダーシップを執り、政府と経済界の架け橋としての役割を全うした。総裁退任後も、貴族院議員として国政に関与し、商工業の発展に関する法整備や政策提言を積極的に行った。

文化芸術への深い造詣と静嘉堂

岩崎弥之助は、単なるビジネスマンではなく、深い教養と文化への敬意を持つ人物であった。明治期に散逸の危機にあった東洋の古美術品や貴重な古典籍を保護するため、膨大な私財を投じて収集活動を行った。そのコレクションは、長男の小弥太によって引き継がれ、現在の静嘉堂文庫の礎となった。国宝級の書画や茶道具を私蔵するのではなく、後世の学術・文化のために保存しようとしたその姿勢は、日本の文化財保護において特筆すべき貢献である。

岩崎弥之助の主な経歴と業績

年(西暦) 主な出来事
1851年 土佐国に生まれる。
1872年 アメリカへ留学。
1885年 兄・弥太郎の死後、三菱の第2代社長に就任。
1886年 三菱社を創立。長崎造船所を買い受ける。
1890年 丸の内の土地を政府から買収。
1893年 三菱合資会社を設立。
1896年 第4代日本銀行総裁に就任。
1908年 逝去。享年57。

人物像と後世への影響

岩崎弥之助の性格は、豪放磊落な兄・弥太郎とは対照的に、沈着冷静で緻密な論理を重んじるものであったと言われている。しかし、丸の内買収に際して見せた大胆な決断力は、彼が決して守旧的な経営者ではなかったことを物語っている。また、当時の実業家としては珍しく、従業員の教育や福祉にも配慮し、三菱商船学校などの教育機関を支援した。彼の築いた多角化路線は、後の三菱重工業、三菱電機、三菱商事、三菱UFJ銀行といった巨大企業のルーツとなり、現代の日本経済を支える大きな潮流を生み出したのである。

岩崎弥之助を支えた家族

  • 妻・早苗:後藤象二郎の長女であり、家庭と社交の両面で弥之助を支えた。
  • 長男・岩崎小弥太:三菱第4代総帥となり、弥之助の多角化・近代化路線をさらに拡大させた。
  • 次男・岩崎俊弥:旭硝子(現在のAGC)の創業者であり、日本の化学工業の発展に寄与した。
  • 三男・岩崎輝弥:鉄道愛好家としても知られ、日本の鉄道史に名を刻んだ。

総じて、岩崎弥之助は「組織の三菱」の真の創始者と言える。兄が築いた土台の上に、合理的で強固な組織という名の建築物を建てたのが弥之助であった。彼が示した「社会への貢献と事業の両立」という精神は、三菱グループが掲げる「三綱領」にも通じる普遍的な価値観として、今なお受け継がれている。