岩倉(遣外)使節団|欧米視察を通じて近代国家の礎を築く

岩倉(遣外)使節団

岩倉(遣外)使節団(いわくらけんがいしせつだん)は、1871年12月23日(明治4年11月12日)から1873年(明治6年)9月13日にかけて、日本の明治政府が欧米諸国に派遣した大規模な使節団である。特命全権大使の岩倉具視を筆頭に、政府の主要な指導者層や留学生を含む総勢100名以上で構成された。この派遣は、日本の近代化の方向性を決定づける極めて重要な出来事であり、明治維新後の新国家建設における指針を確立する役割を果たした。主な目的は、各国への国書の捧呈、幕末に締結された不平等条約の改正に向けた予備交渉、そして先進的な西洋文明の多角的な視察と調査であった。条約改正そのものは時期尚早として難航したが、欧米の制度や技術を直接体験したことは、その後の日本の内政改革に計り知れない影響を与えた。

派遣の背景と目的

岩倉(遣外)使節団が派遣された背景には、1871年に行われた廃藩置県による中央集権体制の確立がある。新政府は、国家の自立を確固たるものにするため、諸外国との不平等な関係を解消することを急務としていた。特に領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復を目指したが、欧米諸国は日本の法制度や社会構造が近代化されていないことを理由に交渉を拒んでいた。そのため、政府は直接首脳陣を送り込み、相手国の実情を把握すると同時に、日本の近代化への意志を内外に示す必要があった。また、広範な分野にわたる先進技術や社会制度を視察することで、日本が導入すべき「文明の型」を模索することも重要な課題であった。

使節団の主要構成員

使節団の首脳陣は、当時の政府最高幹部で固められていた。特命全権大使には右大臣の岩倉具視が就き、副使には参議の木戸孝允、大蔵卿の大久保利通、工部大輔の伊藤博文、外務少輔の山口尚芳の4名が選ばれた。この顔ぶれは、政府の中枢が不在となるリスクを冒してでも、最高レベルの判断力を備えた人材を派遣するという決意の表れであった。また、多くの書記官や専門家に加え、津田梅子や山川捨松といった幼少の女子留学生を含む約50名の留学生も同行した。これらの若者たちは、帰国後に日本の教育や文化の発展に大きく寄与することとなった。

欧米各国の視察行程

岩倉(遣外)使節団は、アメリカ合衆国を皮切りに、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、プロイセン(ドイツ)、ロシア、オーストリア、イタリア、スイスなどの欧米12か国を歴訪した。当初は短期間の予定であったが、ワシントンでの条約改正交渉の停滞や、各国での熱心な視察活動により、旅程は約1年10か月に及んだ。各国の議会、裁判所、工場、学校、軍事施設、さらには文化施設などを精力的に回り、当時の最高水準の文明を組織的に記録した。書記官の久米邦武は、この膨大な見聞を『米欧回覧実記』としてまとめ、当時の欧米社会の構造を日本に紹介する貴重な資料とした。

交渉の挫折と観察の成果

当初の目的の一つであった条約改正交渉については、アメリカとの予備交渉において全権委任状の不備を指摘されるなどの失態もあり、具体的な成果を得ることなく断念せざるを得なかった。しかし、この挫折は使節団員に「まずは国内の制度を整えることが先決である」という強い認識を植え付けた。特にプロイセンの宰相ビスマルクとの会談では、国際社会における弱肉強食の現実と、国家の自立には実力(軍事力と経済力)が必要であることを痛感した。これにより、単なる模倣ではなく、日本の国情に合わせた近代化の道を探る必要性が明確になった。

帰国後の影響と国内政治

岩倉(遣外)使節団の帰国は、国内の政治情勢を大きく揺るがした。使節団の不在中に留守政府を預かっていた西郷隆盛や板垣退助らは、朝鮮への出兵を巡る征韓論を主導していた。しかし、欧米の圧倒的な国力を目の当たりにして帰国した岩倉や大久保、木戸らは、「今は外征よりも内治の充実を優先すべきである」として猛烈に反対した。この対立は明治六年政変へと発展し、西郷らが下野する結果を招いた。その後、政府は大久保を中心とした「内治優先」の体制へと移行し、殖産興業や富国強兵、教育制度の整備を強力に推し進めることとなった。

歴史的意義と評価

岩倉(遣外)使節団の最大の功績は、日本の指導者層が世界の中での日本の位置を正確に把握し、現実的な近代化のモデルを獲得したことにある。特にイギリスの産業革命、フランスの法制度、プロイセンの官僚機構や軍制など、各国から優れた要素を抽出して日本に導入する視座を養った。また、随行した留学生たちが持ち帰った知識は、その後の専門教育や女子教育の礎となった。この使節団による広範な調査と教訓がなければ、日本がアジアで唯一、急速な近代化を成し遂げて列強の仲間入りを果たすことは困難であったと考えられている。

使節団の主要データ

項目 内容
出発日 1871年12月23日(明治4年11月12日)
帰国日 1873年9月13日(岩倉具視の帰国日)
主な訪問国 アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア等
全権大使 岩倉具視
主な副使 木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳
記録資料 久米邦武編『米欧回覧実記』

補足:米欧回覧実記の影響

久米邦武によって編纂された『米欧回覧実記』は、単なる旅行記ではなく、当時の欧米文明の本質を鋭く分析した学術的報告書でもあった。全100巻からなるこの記録は、当時の知識人や官僚たちの必読書となり、日本の進むべき方向を議論する上での共通言語となった。キリスト教の影響や産業資本主義の仕組み、封建制から市民社会への移行プロセスなどが冷静に記述されており、岩倉(遣外)使節団が単なる見学ツアーに終わらなかったことを証明している。