石井・ランシング協定の廃棄|九カ国条約締結による旧協定の失効

石井・ランシング協定の廃棄

石井・ランシング協定の廃棄は、1923年(大正12年)4月14日に日本とアメリカ合衆国の間で公文が交換され、1917年に結ばれた石井・ランシング協定が正式に失効した歴史的事象である。この協定は、第一次世界大戦中の中国における日本の特殊権益を認める一方で、アメリカが提唱する門戸開放・機会均等の原則を確認するという曖昧な性格を持っていた。しかし、戦後の新たな国際秩序を構築したワシントン会議において、中国に関する九ヶ国条約が締結されたことで、協定の存在意義が失われ、最終的に廃棄されるに至った。これにより、日米間の懸案事項の一つが整理され、対中国政策における国際的な枠組みが一本化された。

石井・ランシング協定の成立と背景

石井・ランシング協定は、1917年(大正6年)11月2日、日本の特派大使である石井菊次郎とアメリカ国務長官ロバート・ランシングの間で締結された。当時、日本は第一次世界大戦に乗じて中国への影響力を拡大しており、二十一ヶ条の要求などを通じて権益を固めていた。一方のアメリカは、中国の領土保全と門戸開放政策を維持することを求めており、両国の利害は対立していた。この矛盾を解消するために結ばれた同協定では、日本が中国において地理的に近いことによる「特殊の利益」を持つことをアメリカが認める一方で、日本も中国の独立と門戸開放を尊重することを約束した。しかし、この「特殊の利益」という言葉の解釈は日米間で異なっており、日本はこれを政治的・経済的な排他的利益と解釈し、アメリカはあくまで地理的な隣接関係に伴う一般的利益と見なしていた。この解釈の齟齬が、その後の対立の火種となったのである。

ワシントン会議と国際秩序の変容

第一次世界大戦の終結後、アメリカは大戦後の新しい国際秩序を構築するため、1921年から1922年にかけてワシントン会議を主催した。この会議の主な目的は、海軍の軍縮と極東・太平洋問題の解決であった。この会議において、中国に関する基本原則を定めた九ヶ国条約が調印された。同条約は、中国の主権、独立、および領土的・行政的保全の尊重を明記し、すべての国に対して中国における通商・産業の機会均等を保証するものであった。これにより、特定の国が中国において特殊な地位を占めることを否定する国際的な法的枠組みが完成した。九ヶ国条約の成立によって、日米二国間でのみ有効であった「特殊の利益」を認める石井・ランシング協定は、新条約の内容と明らかに矛盾することとなり、その存続が問われることとなった。

廃棄に向けた交渉と公文交換

九ヶ国条約が調印された後、アメリカ政府は石井・ランシング協定がもはや不要であり、むしろ新しい多国間条約の精神に反するものであるとして、その廃止を日本側に提案した。日本政府内部でも、対米協調を重視する外交方針が主流となっており、特に外務大臣の幣原喜重郎が進めた、いわゆる「幣原外交」の文脈において、国際連盟やワシントン体制への適応が模索されていた。最終的に、日本側も協定の維持が国際的な孤立を招く恐れがあると考え、廃棄に同意した。1923年4月14日、ワシントンにおいて、当時の日本の駐米大使であった埴原正直とアメリカ国務長官チャールズ・エヴァンズ・ヒューズとの間で、石井・ランシング協定の廃棄を確認する公文が交換された。これにより、約5年半にわたって日米関係の微妙なバランスを保っていた協定は、正式にその歴史的役割を終えることとなったのである。

石井・ランシング協定の廃棄がもたらした影響

石井・ランシング協定の廃棄は、日本が国際的な協調体制に組み込まれたことを象徴する出来事であった。日本は、清朝末期以来の排他的な権益拡大路線から、一定の制約の下での経済的進出へと方針を転換せざるを得なくなった。この廃棄により、アメリカは自らが提唱する門戸開放の原則を中国全土で確立することに成功し、対中国外交における主導権を握った。一方、日本の国内では、この廃棄を対米屈服外交と見なす不満が軍部や右翼勢力の間に蓄積されることとなった。特に、ワシントン海軍軍縮条約と並んで、日本の軍事的・政治的拡大を抑制するものと受け止められた事実は、後の昭和期における対外強硬路線の台頭や、日米関係の悪化を招く遠因の一つとなった。外交的には成功と見なされた廃棄であったが、その内実には将来の火種が含まれていたといえる。

日本外交における位置付け

歴史的に見れば、この廃棄は1920年代の「ワシントン体制」の確立を決定づけるプロセスの一部であった。当時の日本政府は、対米英協調を国策の基本とし、国際連盟を中心とした平和主義的な外交姿勢を示していた。この時期の外交を主導した加藤友三郎内閣などは、軍事費の抑制と国際的信頼の回復を優先しており、石井・ランシング協定の廃棄はその一環として論理的に導き出された結論であった。しかし、中国における民族主義運動の激化や、世界恐慌後の経済ブロック化が進むにつれ、九ヶ国条約が前提としていた「機会均等」の理想は崩壊し始めることになる。協定が廃棄された1923年という時点では、日米関係は一時的な安定期に入ったかのように見えたが、実態としては、日本の特殊権益に対する未練とアメリカの理想主義的な強硬姿勢との間の溝は埋まっておらず、その後の歴史が証明するように、根本的な対立の解消には至らなかったのである。

補足:石井菊次郎の回想

石井菊次郎自身は、後年、この協定が廃棄されたことについて、時代の要請であったとしながらも、自らが心血を注いだ外交努力が無に帰したことへの複雑な心情を回想録などで示唆している。彼は、日米間の不必要な誤解を避けるための「便法」として協定を位置づけていたが、国際情勢の激変はその便法を許容しないほどに加速していたのである。また、この廃棄に関連して、当時の中国政府(北京政府)は、自国の頭越しに結ばれた二国間協定が消滅したことを歓迎する声明を出している。このように、一国の外交協定の消滅は、日米二国間のみならず、関係する中国や列強諸国の複雑な思惑が交錯する中で進行したドラマであったといえる。

結論としての歴史的評価

今日において、石井・ランシング協定の廃棄は、帝国主義的な勢力圏争いから、多国間の条約に基づいた国際協調主義への移行を試みた象徴的な出来事として評価されている。同時に、この出来事は、曖昧な表現によって問題を先送りする外交手法の限界を露呈させたものでもあった。「特殊の利益」という言葉が内包していた曖昧さが、かえって日米の不信感を煽った面は否定できない。協定の廃棄によってルールは明確化されたが、それは同時に日本に対して「中国への進出」か「国際秩序の遵守」かという二者択一を迫る結果となった。1920年代の平和な時代においてはこの矛盾は表面化しなかったが、1930年代の満洲事変以降、この選択を巡る葛藤が最終的に太平洋戦争へとつながっていくことになったのである。歴史の転換点において、言葉が失った重みとその後の激動を考える上で、この廃棄は極めて重要な示唆を与えている。