創氏改名
創氏改名は、日本が植民地統治下の朝鮮で進めた同化政策の一環として、朝鮮人に日本式の氏名を名乗らせる方向へ制度と社会を動かした施策である。一般に「氏を創る」こと(創氏)と「名を改める」こと(改名)をあわせて呼ぶが、両者は法的性格と実施のされ方が同一ではなく、行政手続・学校や職場の慣行・周囲の圧力が絡み合って実態が形成された点に特徴がある。
用語と制度の骨格
創氏改名は一語で語られやすいが、当時の制度上は「創氏」と「改名」を分けて理解する必要がある。朝鮮社会には本貫を基礎とする氏族意識が強く、姓と名の運用も近代日本の戸籍実務とは異なる部分があった。そこへ統治当局が戸籍事務を通じて介入し、家を単位とする呼称の統一と日本式氏名の普及を進めたのである。
- 創氏:従来の姓とは別に、戸主を中心とする「家」に対応する新たな「氏」を届け出させる発想で運用された。
- 改名:名(下の名)を日本風の読みや字に変えることを指し、形式上は任意の手続として扱われた。
導入の背景
創氏改名が進められた背景には、統治の効率化だけでなく、戦時動員を支える精神的統合を狙う政治的意図があった。朝鮮総督府は統治の初期から戸籍制度を整備し、警察・教育・徴用などの行政領域を結びつけて住民把握を強めたが、日中戦争以後は「臣民化」を掲げる動きが強まり、名前の問題もその枠組みに組み込まれていった。
皇民化の位置づけ
戦時体制が深まるにつれ、言語・学校儀礼・宗教的慣行などが「日本化」へ誘導され、皇民化政策が体系化していった。名前は日常生活の最小単位で反復される記号であり、呼称の統一は個人の自己認識と周囲の扱いを同時に変えうるため、同化政策の象徴的領域として重視された。
内鮮一体と動員
内鮮一体のスローガンは、法制度の差異を残しつつも社会の実務と意識を「同じもの」として編み直す作用を持った。氏名の日本化は、徴用・徴兵・学徒動員などの局面で「同一化」を演出し、動員の正当化を補強する役割も担った。
実施の過程
創氏改名は1939年頃から制度として整えられ、1940年前後にかけて届け出が集中的に行われたとされる。形式上は手続の選択が示される場面があっても、地域行政や学校、職場の評価、周囲の視線が重なり、実態としては従わざるを得ない環境が広がった。
- 戸籍事務を通じた周知と届け出の誘導が進む。
- 家単位での「氏」の設定が求められ、戸主の判断が家族へ波及する。
- 学校や職場で日本式氏名の使用が事実上の標準となり、未届け出者が不利益を恐れる状況が生まれる。
この時期、旧来の姓や本貫を守ろうとする意識と、生活上の不利益回避が衝突した。特に都市部では就学・就職・配給などの生活線が行政と密接であり、名前の選択が社会的評価に直結しやすかった。
社会への影響
創氏改名がもたらした影響は、単なる呼称変更にとどまらない。名前は親族関係、地域共同体、儀礼、先祖祭祀などと結びつき、個人の来歴を示す装置でもある。そのため、日本式氏名の普及は、家族史の語り方や共同体の記憶にまで干渉した。
差別と同調圧力
形式上の「任意」が掲げられても、未届出者が不利に扱われる可能性が示唆されれば、選択は自由でありにくい。周囲の同調が進むほど、抵抗は「目立つ行為」となり、家族内でも判断が分裂しやすくなった。こうした圧力は、統治が日常へ浸透する典型的なかたちである。
戸籍・教育・労働の連動
当局が住民を把握する基盤は戸籍であり、そこに登録された表記は学校名簿、職場の書類、地域の配給実務などへ連鎖した。統治の網目が細かいほど、氏名の変更は社会生活上の「便利さ」と結びつき、結果として政策の浸透を促進した。
文化的断絶の拡大
氏族名や先祖に関する表象が弱まることで、家系の継承意識や儀礼の意味づけが揺らいだと指摘される。もちろん地域差や家庭差は大きいが、少なくとも名前が持つ記憶装置としての機能が政策によって攪乱された点は見逃せない。
戦後の扱いと歴史認識
創氏改名は1945年の解放後、名前の回復や再変更という現実的課題としても現れた。日本式氏名の使用経験は、本人の意思、家族の事情、行政手続の必要性などが絡み、単純な二分法では整理できない問題を残した。また、政策の評価は、法制度としての位置づけだけでなく、現場で生じた強制性や不利益の実態を含めて語られる必要がある。
歴史叙述においては、日韓併合以後の統治構造、植民地支配の統合メカニズム、戦時動員の拡大という文脈の中で、創氏改名が「名前」という日常の領域を通じて支配を具体化した事例として位置づけられている。同時に、改名の有無や理由は個々人の生活条件によって多様であり、当事者の記憶や地域資料の検討が、実態の理解に不可欠である。