ワフド党|エジプト民族独立運動政党

ワフド党

ワフド党は、第1次世界大戦後のエジプトで結成された民族主義政党であり、イギリスからの完全な独立と立憲政治の確立を目指した大衆政党である。党名の「ワフド」は「代表団・使節団」を意味し、パリ講和会議にエジプト民族の意思を伝える代表団として出発した政治家グループから発展した。ワフド党は、エジプト(20世紀)における民族運動の中心となり、エジプト王国の成立後も議会政治の主役として君主制やイギリスと対峙しつつ政権を担ったが、最終的には1952年の革命によって解党に追い込まれた。

成立の背景

エジプトは19世紀末に事実上イギリスの支配下に置かれ、1914年には第一次世界大戦の勃発とともにイギリス保護国とされた。この過程で、農民層や都市の知識人層のあいだには植民地支配への不満が蓄積し、民族自決の思想が広まっていった。オスマン帝国の解体やトルコ革命オスマン帝国滅亡など周辺イスラーム世界の激動も影響し、エジプトでも民族主義運動の組織化が求められるようになった。こうした状況のもとで誕生したのがワフド党である。

結成とサアド=ザグルール

ワフド党1918年、サアド=ザグルールを中心とする政治家グループが、エジプト民族の意向をパリ講和会議に伝える「代表団」を組織したことに始まる。ザグルールは法律家出身で、官僚や地主、都市の名望家たちをまとめ、エジプト民族の「国民的代表」を自任した。イギリス当局はこの運動を危険視し、ザグルールをマルタ島に流刑としたが、その拘禁がかえって民族感情を刺激し、のちの1919年革命を引き起こす。ワフド党は、こうした指導者のカリスマ性と広範な支持層を背景に、短期間で全国的な組織へと成長した。

  • ワフド党の中心メンバーは、法律家・大地主・都市ブルジョワジーなど教育を受けた層であった。
  • 彼らは「完全独立」「議会政治」「憲法制定」を主要なスローガンとした。
  • 運動は農村や都市下層にも広がり、エジプト全土で共感を得た。

1919年革命と大衆運動

ザグルール流刑に反対して全国的なデモやゼネストが起こった1919年革命は、ワフド党が主導したエジプト民族運動の頂点であった。鉄道や電信の破壊、学生・労働者・農民による抗議行動が各地で展開され、コプト教徒とイスラーム教徒が協力してイギリス支配に反対したことは象徴的であった。女性もまたデモ行進に参加し、民族運動への参加を通じて新しい社会的役割を獲得していった。ワフド党にとって1919年革命は、単なるエリートの外交的運動から、国民的な大衆運動へと変貌する転機となった。

  • 運動はエジプト全土で同時多発的に起こり、「全国民的革命」と評価される。
  • 宗派を超えた連帯が強調され、「エジプト人」という共通のナショナル・アイデンティティが意識された。
  • この経験は、その後のトルコ共和国や他のイスラーム諸国の民族運動とも比較される重要な事例である。

エジプト王国の成立と議会政治

1922年、イギリスはエジプトの「独立」を宣言し、翌1923年に立憲王政体制を定める憲法が制定された。これによりエジプト王国が成立し、議会選挙が実施されるとワフド党は圧倒的多数を獲得して第1党となった。サアド=ザグルールは首相に就任し、議会政治の中心として憲法にもとづく政治運営を進めようとした。しかし、国王フアード1世やイギリス高等弁務官は依然として強い権限を保持しており、ワフド党内閣は幾度も解散や介入に直面した。政党政治は、国王・イギリス・民族政党の三者がせめぎ合う不安定な構図のもとで展開されたのである。

英エジプト条約と外交路線

ワフド党は、一貫してイギリス軍の撤退と完全主権の承認を求めたが、現実には妥協を迫られた。とくに1936年の英エジプト条約は、ワフド党のナフハス=パシャ内閣が締結したもので、イギリス軍の駐留をスエズ運河地帯に限定する代わりに、エジプトの国際的承認と軍制整備を進めることを認めた。この条約は完全独立には程遠いものであったが、当時の国際情勢、とくにヨーロッパにおけるファシズムの台頭を背景に、エジプトの安全保障を確保する現実的選択とも受けとめられた。こうした外交路線は、民族主義と国際協調のバランスを模索するワフド党の政治的特徴を示している。

社会基盤とイデオロギー

ワフド党の主要な支持基盤は、都市の中産階級や地方の大地主層であり、彼らは議会制民主主義と法の支配を通じて政治参加を拡大しようとした。一方で、農民や都市下層民も民族独立のスローガンに共鳴し、選挙動員や街頭運動を通して党を支えた。イデオロギー面では、イスラームを国民的象徴として尊重しつつも、宗教と国家を一定程度分ける近代的な立憲主義に立脚しており、この点はトルコ革命とイスラーム諸国の動向のなかで見られるような世俗化改革とも比較される。

  1. ワフド党は自由主義的な憲政体制の擁護者であり、議会と政党による政治運営を重視した。
  2. 土地改革や社会政策に対しては慎重であり、大地主層の利害と大衆の要求とのあいだでしばしば葛藤を抱えた。
  3. その政治文化は、のちのアラブ諸国の政党政治に一定のモデルを提供したと評価される。

1952年革命とその後

1940年代後半になると、パレスチナ問題や王政の腐敗、英軍駐留の継続などを背景に、エジプト社会の不満は高まっていった。ワフド党も長年の与野党交代のなかで汚職や派閥抗争を抱え、大衆からの信頼を徐々に失いつつあった。1952年、自由将校団による軍事クーデタが発生すると、王政は打倒され、カリフ制廃止スルタン制廃止といった他地域の制度改革と同様に、旧来の政治体制は急速に整理された。新政権は政党を一括して解散させ、ワフド党もまた政治の表舞台から退場させられた。その後、一時的に党名を継ぐ動きもあったが、ナセル体制下では一党支配的な体制が構築され、旧来の議会政党が復活する余地は小さかった。

歴史的意義

ワフド党は、第1次世界大戦後のエジプトにおいて、民族独立と議会政治を掲げた大衆政党として重要な役割を果たした。1919年革命に象徴される国民的運動を組織し、エジプト王国期の議会政治を主導した経験は、アラブ世界における政党政治の先駆的事例である。また、トルコ共和国ケマル=アタテュルクの指導するトルコ革命と同時代に、イスラーム圏で近代的な立憲主義と民族主義を結びつけようとした点でも注目される。最終的に1952年革命によって解党に追い込まれたものの、ワフド党が残した政治文化と経験は、その後のエジプト政治やイスラーム諸国のナショナリズムを理解するうえで欠かせない要素となっている。