東アフリカ植民地|列強が争奪した東アフリカ支配

東アフリカ植民地

東アフリカ植民地とは、19世紀末のヨーロッパ列強による「アフリカ分割」の過程で、インド洋岸から内陸部にかけて形成された植民地支配地域をさす概念である。現在のケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、ソマリア、エリトリア、ジブチなどが主な対象であり、イギリス・ドイツ・フランス・イタリアなどの帝国主義国家が競合しながら支配を進めた。インド洋交易圏と紅海航路を押さえる戦略的重要性に加え、農産物・鉱産資源の供給地として位置づけられた点に特徴がある。

前近代の東アフリカと列強の進出

植民地化以前、東アフリカ沿岸にはスワヒリ都市国家が栄え、インド洋世界の商業ネットワークに組み込まれていた。象牙や奴隷、香料などが交易品であり、アラブ商人やインド商人が重要な役割を担った。19世紀に入ると、ヨーロッパ列強は紅海からインド洋に至る航路の安全確保を重視し、スエズ運河や3C政策といった世界戦略の一環として、東アフリカ沿岸への進出を強めた。サハラ内陸部の支配をめぐるサハラ地域と同様に、東アフリカも地政学的な要衝として注目された。

アフリカ分割と東アフリカ植民地の形成

1880年代のベルリン会議は、列強がアフリカを勢力圏で区分する契機となり、アフリカ横断政策などの構想と結びついて東アフリカの分割が進んだ。イギリスはインドと地中海を結ぶルートの確保を目的として、ケニア・ウガンダ一帯を保護領化し、「ウガンダ鉄道」を建設して内陸支配を強化した。ドイツはタンガニーカ・ルワンダ・ブルンジを束ねたドイツ領東アフリカを獲得し、これは後のドイツのアフリカ進出を象徴する拠点となった。フランスは紅海入口のジブチ(当時のフランス領ソマリランド)を押さえ、インド洋側ではマダガスカルを植民地化して勢力の連続性を確保した。

イギリス・ドイツ・イタリアの支配構造

イギリス領東アフリカ(のちのケニア)は、白人入植者による大農園経営が進められ、「白人高地」と呼ばれる農業地帯が形成された。先住民は頭税や土地収奪、強制労働により鉄道やプランテーション建設に動員され、社会構造は大きく変容した。ドイツ領東アフリカでは、綿花栽培の強制が引き金となり、1905年にマジ・マジ反乱が勃発し、多数の犠牲者を出した。紅海沿岸ではイタリアがエリトリアやソマリランドを支配し、さらにエチオピア征服を試みたが、アドワの戦いで敗北して完全な植民地化は達成できなかった。

東アフリカと他地域の植民地支配との比較

東アフリカにおける植民地支配は、北アフリカのアルジェリアチュニジアにおけるフランス支配と同様、軍事征服と条約締結を組み合わせて進められた。一方、紅海に面するジブチはフランス海軍基地としての性格が強く、インド洋のマダガスカル支配とも連動していた。南部アフリカでのブール戦争南アフリカ連邦の場合と比べると、東アフリカでは白人入植地と保護領支配が混在し、多様な統治形態が並存した点に特徴がある。

経済構造と社会の変容

  • プランテーション農業の導入による現金作物(コーヒー・茶・綿花など)の拡大
  • 鉄道・港湾・道路などインフラ整備の進展
  • 貨幣経済と頭税制度の導入による労働市場の変化
  • 宣教師活動を通じたキリスト教と西洋教育の普及

これらの変化は、従来の部族社会やイスラーム商人を中心とした交易構造を大きく揺さぶった。土地喪失と労働動員によって農村社会は不安定化し、都市では新たな教育エリート層が形成されていった。

抵抗運動と民族運動の高揚

植民地支配に対して、東アフリカ各地では武力蜂起や宗教運動が繰り返された。ドイツ領東アフリカのマジ・マジ反乱や、ケニアのキクユ人による蜂起はその代表例である。20世紀に入ると、都市の教育エリートや退役兵士を中心に民族運動が組織され、第二次世界大戦後には民族国家建設をめざす独立運動へと発展した。これらの動きは、サハラ以南アフリカ全域の独立運動やオレンジ自由国トランスヴァール共和国など南部アフリカの経験とも呼応していた。

独立と東アフリカの再編

第二次世界大戦後、帝国主義が後退すると、タンガニーカとザンジバルの統合によるタンザニア、ケニア・ウガンダ・ルワンダ・ブルンジなどの国家が相次いで独立を達成した。独立後も、植民地時代に引かれた国境線や経済構造、民族対立は大きな課題として残り続けた。東アフリカ植民地の歴史は、インド洋世界・アラブ世界・ヨーロッパ帝国主義が交錯する場としての東アフリカの性格を示すとともに、近代以降のアフリカ国家形成を理解するうえで不可欠なテーマである。