カリブ海政策
カリブ海政策とは、19世紀末から20世紀前半にかけてアメリカ合衆国がキューバやプエルトリコ、グァム、ドミニカ共和国などカリブ海沿岸諸国に対して展開した外交・軍事・経済政策の総称である。モンロー宣言の「欧州不干渉」原則を前提にしつつ、実際にはアメリカが自らの安全保障と市場拡大を名目として、カリブ海を事実上の勢力圏として組み込もうとした政策であり、帝国主義的外交の代表例とされる。
歴史的背景とモンロー主義
カリブ海政策の背景には、19世紀のモンロー主義がある。1823年のモンロー宣言は欧州列強によるアメリカ大陸への再植民地化を牽制する一方で、アメリカ自身が西半球における特別な地位を主張する根拠となった。19世紀後半、国内市場の拡大と工業化が進むと、砂糖やタバコなどの原料供給地および商品市場としてカリブ海地域の重要性が増し、アメリカは外交的・軍事的手段を通じて影響力を強めていく。
米西戦争と領土獲得
1898年の米西戦争はカリブ海政策の転換点となった。キューバ独立運動の激化とハバナ港での戦艦「メイン」号爆沈事件を契機に、アメリカはスペインに宣戦布告し、短期決戦の結果、キューバを保護下に置き、プエルトリコやグァムを獲得した。これらの領土はアメリカ海軍の前進基地として機能し、のちのパナマ運河建設とも結びつくことで、カリブ海全体の軍事・交通ネットワークが形成されていった。
プラット修正条項とキューバ支配
キューバは形式上独立国とされたが、1901年のプラット修正条項によって事実上アメリカの保護国とされた。この条項は、アメリカがキューバの外交・財政・治安に強い干渉権を持つことを認め、グアンタナモ湾には米海軍基地を恒久的に設置した。キューバの砂糖産業にはアメリカ資本が大量に進出し、政治不安が生じるたびに米軍が上陸して秩序回復を名目に介入する構図が生まれた。このような仕組みは、他地域でのフィリピン併合と並んで、アメリカ型帝国支配の特徴を示している。
パナマ運河と戦略拠点
中米地峡を横断するパナマ運河は、カリブ海政策の象徴的事業である。アメリカはコロンビアから分離したパナマ新政府を支援し、1903年に運河地帯の実質的支配権を獲得した。1914年に開通した運河は、カリブ海と太平洋を結ぶ海上交通の要衝となり、海軍力の迅速な展開を可能にした。これにより、大西洋艦隊と太平洋艦隊の連携が強化され、カリブ海はアメリカ本土防衛と通商路確保の要であると同時に、ラテンアメリカに対する圧力の拠点ともなった。
セオドア=ローズヴェルトと棍棒外交
セオドア=ローズヴェルト大統領は、モンロー宣言に「国際警察権」を付け加える形で、いわゆるローズヴェルト系統を打ち出した。彼は「棍棒を持ち、静かに語れ」と表現される強硬な外交姿勢で知られ、棍棒外交として位置づけられる。財政危機に陥ったドミニカ共和国などでは、欧州列強の介入を防ぐという名目で関税収入をアメリカが管理し、事実上の保護国化が進められた。このような強制力を伴う政策は、国内の進歩主義改革と並行して展開し、アメリカの「文明的使命」を掲げるイデオロギーとも結びついていた。
ジョン=ヘイと門戸開放構想
国務長官ジョン=ヘイが掲げた門戸開放宣言は本来中国市場を念頭に置いたものであるが、その発想はカリブ海政策にも通じている。すなわち、特定列強による排他的支配ではなく、名目上は「平等な通商機会」を掲げながら実際にはアメリカ資本の優位を確保するという考え方である。カリブ海地域でも鉄道や港湾、プランテーション経営にアメリカ企業が深く関与し、政治的には干渉、経済的には投資と融資によって支配力を高める構造が形成された。
ドル外交と経済的支配
タフト政権期には、軍事介入を抑えつつ金融と投資を通じて影響力を拡大する「ドル外交」が推進された。中米やカリブ海諸国に対しては、アメリカの銀行団が政府債務を肩代わりする代わりに財政と関税収入の管理権を掌握する方法が用いられた。これにより、表面的には主権を保ちながらも政策決定がワシントンとウォール街の意向に左右される体制が整えられ、カリブ海政策は軍事力と金融力を組み合わせた複合的支配へと発展した。
ラテンアメリカの反発と長期的影響
カリブ海政策は、ラテンアメリカ諸国に強い反米感情と民族主義的運動を生み出した。頻発する米軍の出兵や政権交代への関与は、主権侵害として批判され、のちの「善隣政策」や軍事政権の成立、冷戦期の対立構図にも影響を与えた。カリブ海地域の政治的不安定や経済構造の偏りは、こうした歴史的背景と無関係ではなく、アメリカのフィリピン併合やプエルトリコ統治とともに、近代帝国主義の一形態として今日も研究の対象となっている。