ニューイングランド|清教徒が築く北米植民地

ニューイングランド

ニューイングランド」は、現在のアメリカ合衆国北東部に位置する歴史的地域であり、マサチューセッツ、コネティカット、ロードアイランド、ニューハンプシャー、バーモント、メインの6州を指す。17世紀初頭にヨーロッパ人による植民が始まり、とくに清教徒と呼ばれるピューリタンの移住地として発展した。沿岸部の港湾都市と内陸の農村が結びついたこの地域は、植民地時代を通じて北アメリカ英領社会の政治・宗教・経済の中心の一つとなり、のちのアメリカ独立戦争にも深く関わった地域である。

地理と範囲

ニューイングランドは大西洋岸の北部に位置し、冷涼な気候と起伏の多い地形を特徴とする。ロッキー山脈より東側の北アメリカ東部に属し、長い海岸線と多数の入り江は漁業や海運、造船業の発展をうながした。一方、土壌は南部植民地ほど肥沃ではなく、大規模なプランテーション農業には適さなかったため、小規模な自営農と町を単位とする共同体が広く形成された。

ヨーロッパ人による植民と命名

17世紀初頭、北方航路や漁場を求めたイギリス人探検家や漁民がこの海岸部に季節的な拠点を築いた。やがてロンドンやプリマスの投資家が植民事業に乗り出し、1620年にはピルグリム・ファーザーズとして知られる分離派清教徒がメイフラワー号でプリマス植民地を建設した。地図作成に関わったジョン・スミスらはこの地域を本国イギリスにちなんで「ニューイングランド」と命名し、その後マサチューセッツ湾植民地など複数の英領植民地が設立された。

ピューリタン社会と宗教文化

マサチューセッツ湾植民地を中心とするニューイングランド社会は、カルヴァン派の影響を受けた清教徒の宗教共同体として形づくられた。教会員の資格を厳格に定め、聖書読解を重視したため、住民の識字率は他地域より高かった。各町では教会と学校が早くから設けられ、のちにハーバード大学となる学院も創設された。信仰契約と町民の合意を重んじる政治文化は、タウンミーティングや自治的な植民地議会の発達を通じて、後のアメリカ的な共和主義思想の基盤の一つとなった。

経済構造と交易ネットワーク

経済面でニューイングランドは、南部のタバコや砂糖プランテーションとは異なり、小農経営・漁業・造船・海上貿易に支えられていた。入植者は森林を開墾して家族経営の農場を営む一方、豊富な木材資源を利用して船舶を建造し、大西洋交易に参入した。17〜18世紀には重商主義政策のもとで、ラム酒・糖蜜・奴隷を扱う三角貿易に関わる商人も現れ、ボストンなど港湾都市の富裕な商人層が地域社会に大きな影響力を持つようになった。

ニューイングランド社会の特徴

植民地期のニューイングランドには、他地域と区別されるいくつかの社会的特徴がみられる。

  • 教会と学校を中心とした小さな町が密集し、住民がタウンミーティングで政治参加したこと
  • 商人・職人・自営農が多く、世襲貴族が存在しなかったため、社会の流動性が比較的高かったこと
  • 清教徒倫理と勤勉観が広まり、のちの産業革命期の資本主義的労働倫理の源泉の一つとみなされてきたこと

先住民との関係と紛争

一方でニューイングランドの拡大は、先住民社会との緊張と暴力を伴った。入植者は条約や購入を通じて土地を取得すると称したが、農地拡大や家畜の放牧は先住民の生活圏を圧迫した。17世紀半ばにはピクォート戦争やフィリップ王戦争と呼ばれる大規模な武力衝突が起こり、多数の死者と村落破壊をもたらした。これらの戦争の結果、沿岸部の先住民は人口・領域ともに大きく減少し、植民地側の支配が強まった。

ニューイングランドとアメリカ独立

18世紀になると、ニューイングランドの商人や町民は、本国議会による課税強化や通商規制に不満を募らせた。砂糖法・印紙法・タウンゼンド諸法などの法令は、植民地の代表なくして課税は許されないという思想と衝突し、ボストン茶会事件をはじめとする抗議運動を引き起こした。これらの動きはやがてアメリカ独立戦争へと発展し、ニューイングランドは独立派の拠点として重要な役割を果たした。

独立後の変化と長期的影響

独立後、ニューイングランドは19世紀にかけて繊維工業を中心とする工業化を進め、運河や鉄道の発達とともに国内市場の形成を支えた。教育・出版・宗教運動の中心地としても機能し、禁酒運動や奴隷制廃止運動など各種改革運動を先導した地域であると評価されている。清教徒の宗教文化、自治的な町共同体、商業資本の発達といった要素は、近代アメリカ社会の価値観や政治文化を理解するうえで、いまなお重要な手がかりとなっている。