内閣(中国)
内閣(中国)は、明に成立し清まで存続した皇帝直轄の政務補佐機関である。唐宋の三省制や元の中書省が消えたのち、専制下で政策立案と文書処理を調律するため整えられ、内閣大学士が合議して草案を起こし、皇帝裁可で施行に付す。法定の最高機関でも「宰相」でもないが、政務の総合と文書審議の中枢として国家を支えた。
成立と背景
洪武13年(1380)に中書省が廃されると、太祖は六部を直隷とし、詔勅起草を翰林系学士に分掌させた。永楽期に殿閣大学士が常置化し、「内閣大学士」と称する合議体へ展開する。名称は文淵閣などの書庫(「閣」)に由来する。宋唐の中書門下の理念(起草と審査の分離)を残しつつ、最終裁可を皇帝に集中させるため、具申手続「票擬」が制度化された。
組織と官職
構成員は内閣大学士で、慣行上は首輔・次輔・三輔の序列が生じた。多くは翰林出身で、日常の庶務は給事中や各司の官が補助した。大学士は官階こそ高位と限らないが、実務は皇帝の側近幕僚として諮問に応え、詔勅・条陳・奏疏の文案を整理する。六部尚書・侍郎らの提案を総合し、財政・軍事・刑獄・礼制・土木にまたがる案件を、先例と法令に照らして合議・整文した。
票擬と文書の流れ
内閣の核心が票擬である。①各部・各衙門の奏章を受け、②大学士が意見を付した票箋を添え、③皇帝が朱批で裁可・修正を示し、④内閣が制詔を成文化して下達する。この循環で皇帝判断と官僚の専門知が接続された。唐宋の封駁権は弱まり、明代は科道(給事中・御史)が監察を担った。手続は繁雑だが、文案統一と先例整備、行政速度の均衡を図る枠組みであった。
明代の展開
中期以降、内閣は首輔を軸に統一的指導力を発揮し、帝王と六部の間で調整・総合のレイヤーとなった。財政再建や軍政改革では、大学士が跨部的に企画・統督し、条教や会典の整備で行政一体化を進めた。他方、臨御の強弱や宮廷権力の力学に左右され、宦官・近臣の専横や党争の渦中に置かれる脆弱さもあった。
清代の内閣と軍機処
清初は明制を継受して内閣を置き、票擬と文書統合を担当させたが、雍正期に軍機処が設けられると機密政務はそちらに集中し、内閣は典籍・例行票擬を担うよう再編された。六部との連絡、詔勅整序、制度文書の統一という基幹機能は維持され、専制下で政策過程の可視化と行政一貫性の装置として存続した。
制度的性格と意義
内閣は近代的な内閣制と異なり、法制上の元首代理や連帯責任を負わない。文書機関としての整理力と、合議による助言能力が本質で、皇帝裁可と官僚合議の接合面に位置する「幕僚内閣」であった。三省の理念を継ぎ、元・明・清の官僚制に適合するよう再設計された点に、その連続と変容が示される。
関連制度
制度史の理解には、三省六部と中書門下省の枠組み、元の行中書省による広域統治、監察機構としての御史台、登用制度の進士科、対外関係の朝貢、帝都を指す燕京、思想基盤としての宋学などを併読すると立体性が増す。