李成桂
李成桂(1335-1408)は高麗末の武臣にして朝鮮王朝(李氏朝鮮)の創業者である。紅巾・元残党・女真勢力への辺境防衛で頭角を現し、1388年の威化島回軍を契機として旧体制を覆し、1392年に即位して「太祖」と称した。都を漢陽に定め、儒学を国家理念とし、戸籍・土地・地方行政の再編を断行した。彼の登場は、王建以来の高麗体制が長期の軍事介入と財政疲弊で動揺する中、北東アジア秩序が再編される過程で生じた権力交替であり、朝貢外交の枠内で明と関係を整えることで新王朝の正統を確立した点に特質がある。
出自と時代背景
李成桂は咸州の武人系譜に属し、辺境軍事と在地豪族のネットワークに支えられて昇進した。13世紀末からのモンゴル支配と、のちの元の動揺は高麗政治に深刻な歪みを残し、12世紀の武臣政権以来の軍事優越や私兵化が構造的問題となっていた。紅巾の侵入や女真系勢力の活発化により北方の危機が続発し、宮廷の派閥抗争と財政難が重なって体制転換の素地が形成された。
威化島回軍と政権掌握
1388年、旧元勢力の要請に同調するかたちで遼東出兵が命じられたが、李成桂は威化島で進軍の不当と国費の浪費を論じて軍を反転させ、開京にて実権を掌握した。彼はまず傀儡化を通じて王位継承を操作し、旧勢力の権益を段階的に排除した。1392年、恭让王を廃して新王朝を樹立し、国号を「朝鮮」と改めた。ここに高麗は終焉し、北東アジアの政治地図は一新された。
漢陽遷都と王都の再編
1394年、都は漢陽(ソウル)に定められた。風水・軍事・交通の複合的観点から要衝が選定され、城郭・宮城・市場・街路が再配置された。王都の制度設計は、地方支配と徴税の再構築、そして王権儀礼の刷新を意識して行われ、のちの朝鮮都市文化の基層をなした。
明との関係と朝貢秩序
李成桂は新王朝の正統性確保にあたり、朱元璋の明と関係を調整して冊封・朝貢枠組みに参入した。これは対外貿易の公認と国際的承認を同時に達成する実利的手段であり、国号認可・王位冊封・国境画定を通じて新体制の対外的地位を確立した。北方のダイナミズム(遼・金・元・女真・モンゴルなど)を俯瞰するうえでも、北方の諸勢力の動向を踏まえた均衡外交が実践された。
統治理念と制度整備
国家理念には朱子学が据えられ、官学・科挙・礼制を骨格とする統治秩序が整備された。成均館の整備、官僚登用の規範化、地方社会の再編は王権強化と直結した。儒教的秩序への転換は、儒学の官学化という東アジア的潮流の中で理解されるべきである。
土地・軍制・財政の再編
科田法や戸籍編成を基盤に地税と役の賦課を均衡化し、軍功や職掌に応じた荘田・功田の整理に着手した。軍制では辺境防衛の常備化と、王都防衛の実効性を重視した布陣が行われ、象徴政治に偏しがちな宮廷機構の抑制も図られた。宦官機構については、明の専横化の反省を意識して統制が志向された(関連項目:宦官)。
対日関係と海域秩序
沿岸防備と交易規制は喫緊の課題であった。倭寇対策として港湾と航路の監督、外交文書の往復、犯罪者の引渡しなどが講じられ、のちの室町期の勘合制度にも連なる海域秩序の再編に接続した。16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵は時代を隔てるが、沿岸社会の統治と国際海域の管理という課題設定は太祖期に既に端緒があった。
王位継承と「王子の乱」
晩年の政局は後継争いに揺れ、1398年の第一次王子の乱で世子邦changが排除され、李成桂は同年に譲位して定宗(邦gwa)を立てた。1400年の第二次王子の乱を経て、三男の李芳遠が即位(太宗)し、王権の再集中と制度整備が一段と進む。太祖の創業は、後継王の下で制度化と安定化の局面へ移行した。
歴史的意義と東アジア史の位置
李成桂の創業は、古朝鮮以来の半島史の層位(例:衛氏朝鮮や朝鮮4郡の時代)と、中国王朝の変遷(例:漢から宋・元・明へ)に交錯する「境界の政治」の典型例である。彼は冊封秩序を梃子に新体制の正統を獲得し、儒学的官僚制を核に社会を再設計した。王朝創業者を敬称する太祖の用例にふさわしく、彼の選択は地域秩序の更新をもたらし、後代の文化・社会・外交の基層を形づくった。
- 年号・在位:1392年即位、1398年譲位、1408年崩御。
- 都城:漢陽(ソウル)に遷都し宮城と城郭を整備。
- 対外:明との冊封・朝貢を通じて承認を獲得。
- 制度:成均館・科挙・礼制の整備、土地・軍制の再編。