コーラン
コーランはアラビア語で“Qur’an(朗誦)”を意味し、イスラーム教の根本聖典である。610年頃から632年にかけてムハンマドに下った啓示を収め、章(スーラ)114、節(アーヤ)から成る。配列はおおむね長い章から短い章へと整えられ、啓示年代順ではない。初期には口誦が重んじられ、やがて文書化が進む。ウスマーン期に標準本文が整備され、以後の共同体はその読誦と書写を通じてコーランの一体性を保ってきた。宗教儀礼、倫理、法、信仰教育において中核的役割を担い、メッカとメディナでの啓示が相補的世界像を形づくる。
啓示と編纂
コーランの啓示は天使ジブリールを介してムハンマドに降下したと伝承される。予言者は朗誦し、弟子や書記が皮紙・椰子葉・骨片などに記した。ムハンマド没後、戦死で記憶者が減る懸念から集成が進み、第三代正統カリフ、ウスマーンのもとで標準本文(マスハフ)が諸都市に配布された。地方の異読を抑える意図であるが、学問的には許容された複数の読誦体系(キラーア)が伝わる。こうしてコーランは統一と多様性を併せもつ典拠となった。
構成と主題
- コーランは114章から成り、章内はアーヤ(徴)と呼ばれる短句が連なる。
- 神の唯一性、創造、裁き、来世の報いと罰、預言者たちの物語が主題である。
- 信仰・礼拝・施与・断食・巡礼などの規範を示し、共同体に倫理を授ける。
- 比喩・反復・韻律が多用され、聴覚的記憶に適う文体がコーランの特色である。
朗誦と学習の文化
コーランは読むより「正しく響かせる」ことが重んじられ、発音規則(タジュウィード)に基づく朗誦が継承される。全文を記憶した者はハーフィズと称され、礼拝や儀式での読誦、葬送・婚礼・学塾での教育に広く用いられる。記憶と書写の二重の担保が、時空を超えた本文の保持を支えてきたのである。
法・神学・解釈
コーランはハディースと並ぶシャリーア(法)の根拠であり、文脈・語義・啓示順序などを精査する注解(タフスィール)の伝統が発達した。規範句の適用や一般原理の抽出、廃止と適用(ナースフ)の整理などが議論され、法学派や神学流派はコーランに基づき信仰教義を体系化した。物語章句は歴代の預言者の模範を示し、倫理教育の核ともなる。
言語・翻訳・文体美
コーランは古典アラビア語で記され、その雄弁と簡潔は神的文体の証(i’jaz)とされる。他言語版は一般に“translation of meanings”と呼ばれ、原典の響きと多義性を完全には移せないと理解される。とはいえ学習や布教における翻訳の役割は大きく、注解付き訳が読者の理解を助けてきた。
歴史的影響
コーランはウンマ(信徒共同体)の結束原理として機能し、教育制度、書道・装飾写本、説教、政治倫理にまで影響を及ぼした。学塾(マドラサ)は朗誦と注解を核に学芸を涵養し、文学や法学、神秘主義の思索もコーランの語彙と譬喩に依拠して展開した。社会正義・救済・施しの理念は共同体の互助を促し、歴史を通じて公共性を支えた。
用語と表記
日本語ではコーランのほか「クルアーン」とも記され、英語では古くは“Koran”、現在は“Qur’an”が一般的である。語源は「朗誦」を意味し、書物でありながら音声的伝承を本質に含む。呼称の差は受容史の反映であり、研究・教育では表記の揺れに注意が払われる。
啓示の時期区分
伝統的にコーランはメッカ期とメディナ期に区分される。ヒジュラ(移住)以前の章は信仰の基礎と来世観を、移住後は共同体規範や法的条項を多く含む。両者の緊張と調和が信仰と社会秩序の二面性を支え、歴史的状況に応じたメッセージの厚みを与えている。