1795年憲法
1795年憲法は、フランス革命後期において、ジャコバン派独裁と恐怖政治が終焉したのちに制定されたフランスの新しい憲法であり、いわゆる総裁政府体制の法的基盤となった憲法である。革命の混乱と権力の集中に対する反動として、権力分立と保守的な有産階級支配を重視し、急進的民主主義から穏健なブルジョワ共和政への転換を示す重要な転換点となった。
制定の歴史的背景
1793年憲法とジャコバン派の支配は、ロベスピエールを中心とするジャコバン派の主導によって、戦時動員と非常手段を正当化し、国民公会のもとで徹底した中央集権と弾圧を生み出した。しかし恐怖政治への反発は、1794年のテルミドールのクーデタによって急速に表面化し、ロベスピエール派の失脚後、穏健な共和派が政局を握ることになった。このテルミドール体制の課題は、革命の成果である共和政と市民的自由を維持しつつ、再び独裁や無政府状態に陥らない安定した政治制度を構築することであり、その答えとして構想されたのが1795年憲法であった。
制定過程と年号表記
1795年憲法は、フランス革命政府が導入した革命暦に従い「共和暦3年憲法(憲法アナ3)」として起草された。テルミドール派を中心とする国民公会が、委員会を設置して草案をまとめ、国民投票による承認を経て施行された。名目上は人民主権と国民投票を尊重しつつも、実際には有権者や代議員の資格を制限し、政治的主導権を富裕層と中産市民に委ねる構造となっていた。このように1795年憲法は、急進的な平等主義を退け、所有権と社会秩序を優先する「反ジャコバン」の折衷的憲法として誕生した。
統治機構の基本構造
二院制議会の導入
1795年憲法の最大の特徴は、立法府として二院制を導入した点である。下院にあたる五百人会は、法律案の発案と審議を担当し、上院にあたる元老会は、五百人会が可決した法案の承認または否決を行った。両院の分立は、単一議会のもとで権力が集中したジャコバン期への反省から生まれたものであり、権力分立と相互抑制を通じて、急進勢力の再台頭を防ぐ意図があった。また議員には一定額以上の納税額が求められ、政治に参加できるのは限られた有産市民にほぼ限定されていた。
総裁政府による執行権
行政権は、1人の大統領ではなく5人の総裁から構成される総裁政府に付与された。総裁は元老会が五百人会の候補者から選出し、任期は5年とされ、毎年1名を改選する仕組みとした。これにより権力が一人の指導者に集中することを避け、また一挙に全員が交代する事態も防ごうとしたのである。総裁政府は外交・軍事・行政の中心を担ったが、議会の信任に基づく責任内閣制とは異なり、議会による罷免が限定されていた一方で、総裁側にも議会解散権がなく、立法と行政の対立が調停されにくい構造的弱点を抱えていた。
選挙制度と有産階級支配
1795年憲法の選挙制度は、成年男子であっても一定の納税要件を満たさない者には選挙権が与えられない制限選挙であり、さらに二段階選挙を採用していた。まず各コミューンで有権者が「選挙人」を選び、選挙人が五百人会や元老会の議員を選出する方式である。この制度は、直接民主主義を掲げた1793年憲法とは対照的に、政治参加のハードルを高めることで、地方の急進派や貧困層の影響力を抑え、都市の資本家や地方の地主などブルジョワ層の安定した支配を確保しようとする意図を示していた。
権利宣言と社会観
1795年憲法は、1789年の人権宣言を踏まえつつ、新たな宣言を付属させたが、その内容はより保守的であった。市民の自由や所有権は重視された一方で、「救貧」や「労働の権利」といった社会権的要素は後退し、個人の自助と家族、財産の保護が強調された。また宗教に関しては、1790年代前半の理性の崇拝や急進的な世俗化運動から距離を取り、信仰の自由を認めつつ、秩序維持の観点から宗教を一定程度容認する姿勢へと修正していった。このような社会観は、革命の混乱を経験した中産市民が安定と所有権の保障を何よりも重視するようになったことを反映している。
制度上の問題と崩壊への道
1795年憲法の下で誕生した総裁政府は、フランス革命の成果を守りながら秩序回復を目指したが、財政難や戦争の長期化、政治腐敗など多くの問題に直面した。議会と総裁政府の関係はたびたび対立し、クーデタまがいの非常手段によって選挙結果が修正されることもあった。政府は軍への依存を強め、軍人として頭角を現したナポレオンら将軍の影響力が増大した結果、1799年のブリュメール18日の政変によって総裁政府は崩壊し、ナポレオンの統領政府が成立する。こうして1795年憲法は短命に終わったが、単一議会・独裁から二院制・合議制への移行という点で、その後の近代憲法史において重要な実験的段階を示したと評価されている。