黒人分離政策|人種隔離と黒人差別政策

黒人分離政策

黒人分離政策とは、主としてアメリカ合衆国南部で、法律や行政慣行によって白人と黒人を生活のあらゆる領域で分けた人種差別的な制度である。学校や交通機関、飲食店、公園などの公共施設が別々に設けられ、黒人は劣悪な設備と限られた機会しか与えられなかった。

成立の歴史的背景

南北戦争後、憲法修正第13条から第15条によって奴隷制廃止と市民権、選挙権が認められたが、南部白人支配層は黒人優位を恐れ、黒人取締法や私刑、クー=クラックス=クランの暴力によって黒人の政治参加を妨害した。その流れの中で、法的枠組みを備えた黒人分離政策が整えられていった。

ジム=クロウ法と制度の内容

19世紀末から20世紀前半にかけて、南部諸州ではジム=クロウ法と呼ばれる州法・条例が制定され、公共交通機関の座席、学校、図書館、劇場、トイレに至るまで白人と黒人を分離することが義務づけられた。表向きには「別個だが平等」と説明されたものの、黒人用施設は慢性的な財政難に置かれ、教育水準やサービスの質は白人用と比べて著しく低かった。

法的正当化と最高裁判決

1896年のプレッシー対ファーガソン裁判で連邦最高裁判所は「分離すれども平等ならば合憲」と判示し、教育や公共サービスにおける黒人分離政策を追認した。この判決は各州に広範な裁量を与え、差別的立法を一層進める根拠となった。他方で、黒人側は全米有色人種地位向上協会(NAACP)などを通じて訴訟を積み重ね、判例を少しずつ揺さぶっていった。

黒人社会への影響

黒人分離政策は、教育・雇用・住宅・医療へのアクセスを制限し、貧困と社会的周縁化を固定化する構造を作り出した。その一方で、黒人コミュニティ内部では教会や学校、新聞社、ビジネスが自立的に発達し、後の公民権運動を担う指導者層とネットワークが育ったとされる。

公民権運動と撤廃

第二次世界大戦後、黒人兵士が海外で自由と民主主義のために戦いながら国内で差別される矛盾への批判が高まり、1950年代以降、公民権運動が本格化した。1954年のブラウン対教育委員会判決で最高裁は公立学校の人種分離を違憲とし、プレッシー判決を転換した。その後、公民権法(1964年)と投票権法(1965年)が制定され、法律上の黒人分離政策は終焉を迎えたが、居住区の分離や所得格差など、構造的な人種不平等はなお残り続けている。

歴史的評価と国際的影響

アメリカの黒人分離政策は、南アフリカのアパルトヘイトなど他地域の人種隔離体制と比較されつつ研究されている。冷戦期には、国内の人種差別がアメリカの国際的イメージを損ない、民主主義国家としての正当性を問う問題ともなった。今日では基本的人権を踏みにじる制度として否定的に評価されている。