高句麗遠征
高句麗遠征とは、中国の統一王朝である隋および唐が、東北アジアの強国・高句麗に対して行った一連の大規模軍事行動を指す。隋は皇帝煬帝の下で612年から614年にかけて三度出兵し、唐は太宗期の645年遠征と高宗期の661年以降の連年作戦を通じて668年の平壌陥落へと至った。いずれも国家総力を投じた長距離遠征であり、補給線の維持、海陸連携、同盟外交が勝敗の鍵を握った。遠征は朝鮮半島の勢力図を塗り替え、東アジア国際秩序の再編を促す決定的事件であった。
背景
6世紀末、隋が中国を再統一すると、北東の遼東地域で高句麗と境界紛争が頻発した。高句麗は山城網と熟練の騎歩兵を擁し、外征にも耐える持久力を備えていた。他方、隋は巨大な動員力と運河輸送網を背景に威信拡大を狙った。とりわけ大運河の整備は北方正面への兵糧輸送を可能にし、皇帝権威の軍事的誇示が「対高句麗」政策を推し進めた。続く唐もまた北方安定と外征の均衡を求め、遼東戦線を戦略課題に据えた。
隋による遠征(612–614年)
612年、煬帝は多方面作戦を発動し、遼河渡河・海上補給・長城線の諸軍を統合したが、広域での統制と補給が破綻した。613年には内地で反乱(楊玄感の挙兵)が起こり戦略の一体性が崩れ、614年の講和で表面的服属を得たにすぎない。隋の失敗は、動員規模の膨張と統制不能、遠征季節の選定ミス、現地地形への不適応、そして敵の機動防御に翻弄された点に要約できる。
薩水の戦い
612年の薩水(薩水の戦い)は隋遠征の帰趨を決めた。高句麗の名将・乙支文徳が巧みに偽退や持久を用い、隋軍主力を川越で壊滅させた。戦史的には消耗戦を通じて敵の士気・編制・補給を急速に崩す「遅速の操作」の典型とされ、以後の作戦主導権は高句麗側に傾いた。これにより隋は威信を大きく損ない、国家基盤の疲弊が加速した。
唐による遠征(645–668年)
唐太宗は645年に遠征を敢行し、遼東諸城を攻略したが、安市城の堅守と補給伸延で冬営を強いられ撤兵した。太宗の敗北後も唐は圧力を継続し、高宗期に李勣らの統合作戦、遼東・朝鮮西海岸からの海陸夾撃、新羅との協働を重ねた。661年以降、唐軍は段階的に高句麗の拠点を切り崩し、668年、平壌が陥落して高句麗は滅亡した。
新羅との同盟と再編
唐は半島南部の新羅と同盟し、高句麗・百済と対峙した。668年以降、唐は安東都護府を設置して支配を図るが、新羅は自立を強めて唐と対立し、最終的に7世紀末までに半島の大半を統一した。高句麗遺民は遼東・渤海地方へ移動し、後に渤海建国へと連なる。遠征は征服後の統治の難しさと、同盟の相対的自立を示す事例となった。
軍事・後方体制
長距離作戦の要諦は補給であった。隋は大運河を幹線として穀運を実施したが、中継基地の脆弱さと水陸転換点の渋滞が致命的となった。唐は府兵・募兵の併用と前線の屯田・鹵獲で弾力性を高め、遠征季節を調整して兵站負担を緩和した。制度面では府兵制の運用と、将帥の現地裁量が機動力を支えた。
外交・文化的影響
遠征は東アジアの国際関係に波紋を広げた。半島の再編は日本列島の対外政策にも影響し、対隋・対唐の知識収集と制度参照が進んだ。倭はやがて遣隋使・遣唐使を通じて情報と人材を往来させ、律令国家形成を推進した。文官登用の理念は科挙に象徴され、統治枠組みは律令制度として受容され、軍政・税制・礼制に長期的影響を及ぼした。
戦術・地理と城塞
- 遼東の山城と水系:高句麗は山地要害と河川線を活かし、機動防御と奇襲を併用した。
- 海陸連携:唐は沿岸輸送と河口上陸を組み合わせ、正面圧力と後方撹乱を同期させた。
- 城塞攻囲:安市城などの堅城は攻囲兵器の運用・補給・士気に大きな試練を与えた。
史料と記憶
隋書・旧唐書・資治通鑑、朝鮮側の三国史記などが主要史料である。中国側叙述は皇帝権威と辺境統治の理想を反映し、朝鮮側は国家存亡の記憶として乙支文徳や城主の奮戦を称揚する。近現代では民族・国家の語りに遠征が組み込まれがちであるが、軍事・制度・物流・同盟の複合要因から検討することで、高句麗遠征は東アジア秩序形成の転換点として位置づけられる。