青木昆陽|甘藷の普及に尽力し飢饉から民を救う

青木昆陽

青木昆陽(1698年-1769年)は、江戸時代中期の日本を代表する儒学者であり、蘭学の先駆者、そして幕臣として多大な足跡を残した人物である。特に享保の大飢饉の際、救荒作物としてのサツマイモ(甘藷)の栽培と普及を提唱し、多くの民衆を飢餓から救った功績によって「甘藷先生」の通称で親しまれている。また、将軍徳川吉宗の信任を得て、野呂元丈とともにオランダ語の研究に着手し、後の蘭学興隆の基礎を築いた点でも、日本近代化の遠い先駆者として高く評価されている。

出自と京都での学問修行

青木昆陽は元禄11年(1698年)、江戸日本橋小田原町の魚問屋「佃屋」の長男として生まれた。幼名は源次郎。当時の町人階級としては異例の学問への情熱を持ち、20代半ばで京都に上り、古義学派の重鎮である伊藤東涯に師事した。ここで彼は実証的かつ批判的な文献学の基礎を学び、単なる空論ではない「実学」の重要性を身につけた。当時の江戸学界では荻生徂徠の学説が大きな影響力を持っていたが、昆陽は東涯の教えを忠実に守り、着実かつ誠実な研究態度を貫いた。父の死に伴い江戸へ戻った後は、市中で私塾を開き、儒学を教える傍らで独自の社会観察を続けた。この時期の苦労が、後の民衆救済に向けた強い意志を育んだと言える。

サツマイモ栽培の提唱と『蕃薯考』

青木昆陽の運命を大きく変えたのは、享保17年(1732年)に発生した享保の大飢饉であった。深刻な食糧不足に直面する社会を目の当たりにした彼は、荒地でも生育が早く、気候の変動にも強いサツマイモの有用性に注目した。彼は琉球や薩摩から伝わっていたサツマイモの性質を徹底的に調査し、その栽培方法や保存法、加工法をまとめた『蕃薯考』を執筆した。時の町奉行である大岡忠相を通じてこの書が吉宗の目に留まり、昆陽は幕府の命を受けて試験栽培を行うこととなった。

試験栽培は小石川御薬園や下総国幕張村(現在の千葉県千葉市)、上総国不動堂村で行われた。昆陽は自ら土にまみれて指導にあたり、その結果、栽培は成功を収めた。これによりサツマイモは救荒作物として東日本にも急速に普及し、後の天明や天保の飢饉においても多くの命を救う結果となった。以下のコードは、当時と現代のサツマイモの収穫時期や気候適応に関する簡易的な数値を整理したものである。


【サツマイモ(甘藷)の栽培効率計算モデル】
栽培期間:約120日〜150日
最低生育温度:15℃以上
収穫指数 = (塊根重) / (全植物重)
当時の推計収穫量:10アールあたり約1,500kg〜2,000kg
(※米の凶作時における代替エネルギー源としての価値は極めて高い)

蘭学の端緒と語学研究

吉宗による享保の改革の一環として、実学の奨励が行われる中、青木昆陽には新たな任務が課された。西洋の技術や医術を取り入れるため、禁書緩和の政策と並行してオランダ語の習得が命じられたのである。元文5年(1740年)、昆陽は野呂元丈とともに、江戸に参府したオランダ商館長や通詞に面会し、オランダ語の単語や文法の聞き取り調査を開始した。

この学習は極めて困難を極めたが、昆陽は『和蘭文字略考』や『和蘭話訳』などの先駆的な語学書を著した。彼の研究は、言語そのものの習得だけでなく、動植物や鉱物などの自然科学的知見を含む本草学的な関心とも深く結びついていた。彼の蒔いた種は、次世代の杉田玄白や前野良沢らによる『解体新書』の翻訳へと繋がり、日本の近代医学や科学の発展を支える大きな潮流となった。

幕臣としてのキャリアと書物奉行就任

青木昆陽の官僚としての手腕も高く評価されている。延享4年(1747年)、彼は幕府の書物改役に任じられ、公式に幕臣としての地位を得た。さらに宝暦4年(1754年)には書物奉行に昇進し、徳川家の重要文献を収めた紅葉山文庫の管理という重責を担った。彼は書物の整理や保存において緻密な作業を行い、多くの古典や行政資料の散逸を防いだ。

また、昆陽は地理学や民俗学にも造詣が深く、日本各地の古碑の調査や古銭の研究など、多岐にわたる分野で業績を残した。彼は単なる書斎派の学者ではなく、常に現場の視点を忘れず、実態に基づいた知識の集積を重視した。その姿勢は、後に活躍する伊能忠敬などの科学的調査活動にも影響を与えたと考えられる。彼の学問の根底には、民を富ませ国を治めるという「経世済民」の思想が一貫して流れていた。

晩年と不朽の遺徳

明和6年(1769年)、青木昆陽は流行病により72歳でその生涯を閉じた。死後、彼の墓は目黒の瀧泉寺(目黒不動尊)に建てられた。墓石には自らの希望により「甘藷先生墓」と刻まれており、今日でも多くの人々がその徳を慕って参拝に訪れる。昆陽の命日である10月には「甘藷まつり」が開催され、サツマイモの恵みと彼の功績が永く語り継がれている。

昆陽が普及させたサツマイモは、日本の食文化や農業史において欠かせない存在となった。特に火山の噴火や冷害が相次いだ江戸後期において、サツマイモはまさに「生命の綱」としての役割を果たしたのである。青木昆陽という人物は、知を社会の幸福へと直接結びつけた、真の意味でのインテリジェンスの体現者であった。彼が示した実証主義と献身の精神は、現代の科学技術社会においても、倫理的な指針として重要な意味を持ち続けている。

歴史家たちは、昆陽を荻生徂徠の系譜とは異なる、もう一つの江戸思想の頂点として位置づけている。彼が築いた蘭学の基盤と、農業への科学的アプローチは、19世紀の幕末動乱期を乗り越えるための知的資源となった。青木昆陽の業績は、特定の学派に留まることなく、日本人の生活そのものに深く根ざしている。