青年イタリア
青年イタリアは、19世紀前半に展開したイタリア民族運動リソルジメントを推進した革命的結社である。1831年、亡命中の思想家マッツィーニがフランスのマルセイユで創設し、分裂していたイタリアを一つの共和国として統一することを目的とした。秘密結社の形態をとりながら、出版物・宣伝・蜂起計画を通じて若い世代のナショナリズムを喚起し、のちのイタリア統一運動に大きな影響を与えた組織である。
成立の背景
青年イタリアの成立背景には、ウィーン会議後に成立した保守的な国際秩序ウィーン体制がある。イタリア半島はサルデーニャ王国、両シチリア王国、ローマ教皇領、オーストリアの支配下にあるロンバルディア・ヴェネツィアなど、複数の国家・勢力に分割されていた。自由主義や民族自決の思想は広まりつつあったが、各地の秘密結社や蜂起は連帯を欠き、個別に弾圧されていた。マッツィーニはこの状況を打破するため、イタリア人全体を共通の理想の下に組織し、統一された共和国建設を目指す必要があると考えたのである。
創設者マッツィーニと理念
マッツィーニは、キリスト教的人道主義と共和主義、民族自決を結びつけた思想家であり、青年イタリアの精神的指導者であった。彼はイタリア統一を王政ではなく共和国として実現することを強く主張し、人民の道徳的向上を伴わない単なる外交的統一を批判した。彼のスローガンは「神と人民」「義務と権利」であり、個人が祖国と人類に対する義務を自覚するとき、真の自由と統一が実現すると説いた。
綱領とスローガン
- イタリアは一つであり不可分の共和国とすること
- 外国勢力と旧支配層の支配からの完全な解放
- 人民の政治参加と市民的自由の保障
これらの綱領は、貴族主導の改革よりも、民衆自身の参加による革命を重視するものであり、のちにガリバルディら行動派の志士を鼓舞した。
組織構成と活動の方法
青年イタリアは、主として中産階級の知識人、学生、職人、軍人など比較的若い層から構成されていた。会員は秘密裡に小グループに分かれ、相互に連絡を取り合う細胞組織を形成した。宣誓によって結束を固め、資金の拠出や文書配布、武器調達など具体的任務を分担し、反乱の準備を進めた。機関紙「Giovine Italia(Young Italy)」は亡命地から密かに半島各地へ送られ、統一共和国の理想を宣伝する重要な手段となった。
主な蜂起と挫折
青年イタリアは、1830年代から40年代にかけていくつかの蜂起を組織したが、多くは未遂や失敗に終わった。1833年のサルデーニャ王国軍内部での陰謀は発覚し、多数の関係者が処刑された。1834年にはサヴォイア地方への侵入計画が実行されたものの、住民の支持を得られずに崩壊した。また、1844年に起こったバンディエラ兄弟の蜂起も、十分な組織化が伴わず鎮圧されている。これらの挫折は、多くの犠牲と失望をもたらしつつも、イタリア各地に殉教者の記憶を残し、民族運動の象徴となった。
1848年革命との関係
1848年のヨーロッパ各地の革命では、青年イタリア出身者や影響を受けた活動家が各地で活躍した。特にローマでは、一時的に共和政が樹立され、短命に終わったもののローマ共和国が成立した。このとき、マッツィーニは指導的役割を果たし、ガリバルディや多くの志願兵が共和政防衛のために戦った。最終的にはフランス軍介入によって共和国は崩壊するが、経験はイタリア人に共通の政治舞台と記憶を提供し、のちの統一運動を精神的に支えた。
立憲王政路線との対立と接点
青年イタリアは一貫して共和国を主張し、立憲王政による統一を志向したカヴールらサルデーニャ王国の指導者と路線を異にしていた。マッツィーニは、王と外交に依存する統一を「上からの統一」と批判し、道徳的・社会的改革を伴う「下からの統一」を重視した。しかし現実には、1859年以降の戦争や外交を主導したのはサルデーニャ王国であり、イタリア王国は王政の形で成立する。とはいえ、ガリバルディや多くの元青年イタリア会員は、最終的に王国側と協力して統一達成に貢献しており、理念と現実政治の折り合いが模索されたことがうかがえる。
歴史的意義
青年イタリアは軍事的・政治的にはしばしば失敗に終わったが、イタリア人の間に「一つの祖国」という観念と共和国主義的ナショナリズムを広めた点で大きな意義をもつ。小規模な秘密結社を全国的組織へと転換させた試みは、その後のイタリア統一運動の枠組みを準備した。また、犠牲者や亡命者の経験は、文学・回想録を通じて共有され、19世紀イタリア政治文化の重要な一部となった。リソルジメントの歴史を理解するうえで、青年イタリアは思想・組織・象徴の三側面から検討すべき中心的存在である。