部派仏教
釈尊入滅後、僧団は戒律運用と教理解釈をめぐって議論を深め、やがて複数の学派に展開した。この多元的な仏教世界を指して部派仏教という。初期の結集に始まり、上座部と大衆部の分岐、さらに多数の部派成立へと進む流れは、インド亜大陸の社会変動や王権の保護、商業の発達と密接に連動し、のちの大乗興起や諸地域への伝播の基盤となった。制度面では戒律典が整えられ、教理面ではアビダルマが体系化された。
成立背景と時代区分
伝承によれば、釈尊滅後に行われた結集で経・律の誦出が確立し、その後の第二結集で戒律の運用をめぐる意見対立が顕在化した。こうした論争は、出家集団が都市経済や王権との関係を再調整する過程で生じ、僧院規範の厳格化と現実的運用の間で均衡を探った結果である。前3世紀のマウリヤ朝期に広域統合が進むと、教団も地域ごとに独自の学習伝統を育み、これが部派仏教の分化を加速させた。
根本分裂:上座部と大衆部
伝統的説明では、根本分裂は保守的な上座部(長老派)と、規範運用に柔軟な大衆部(多数派)に大別される。上座部は律の厳密な遵守と修行規範を強調し、大衆部は僧団の実情に即した解釈を重視したと語られる。実際には地域・僧院ごとの学習ネットワークが複合的に作用しており、単純な二分法に還元できないが、この対立図式は部派仏教の性格を理解する手掛かりとなる。
戒律と教義の争点
- 戒律の細目運用(生活必需の扱い、布施・寄進の受容範囲など)
- 阿羅漢の位階に関する評価と到達可能性の理解
- 仏陀観・菩薩観の位置づけ(徳相の解釈、覚りのモデル)
- 教法の分類と学習法(アビダルマの体系化の是非)
十八部への展開
史料上は「十八部」と総称されるほど多くの学派が言及される。代表例として、説一切有部、法蔵部、化地部、飲光部、正量部、雪山部、大衆部諸派などが挙げられる。これらは戒律(律蔵)や教理の整理法に特色を持ち、地域的には北西インドから中インド、デカンへと分布し、交流と競合を通じて知的生産を活性化させた。こうした拡がりこそが部派仏教の歴史的ダイナミズムである。
アビダルマと経典伝承
各部派は教説を項目化・体系化するアビダルマ(論蔵)を重視し、法の分類、心の働き、修道段階などを精緻に論じた。経典伝承でも、長部・中部などの阿含経系と、それに対応する漢訳群が形成され、部派ごとに誦習の配列や重視箇所が異なった。律典は僧団の自律的統治を支え、布施・受戒・安居などの慣行を通じて日常の修行生活を組み立て、仏教社会の規範を持続させた。これらの営みは部派仏教の学的厚みをもたらした。
社会と王権の支援
都市の商人層は僧院への寄進を通じて功徳を積み、王権は広域秩序の維持や信仰統合の観点から僧団を保護した。とくにマウリヤ朝期には石柱詔勅や巡行などを通じて道徳の普及が図られ、僧院ネットワークの拡大を後押しした。経済基盤が整うことで、写本の制作、議論の場の整備、教師と学徒の往来が進み、部派仏教は知的共同体としての厚みを増した。
地域的広がりと相互交流
北西インドの交通結節点から中央アジアへ向かう交易路は出家者の移動と情報交換を促した。異なる部派が同一都市で共存することも多く、僧院間で戒律や教説の相互参照が行われた。美術や儀礼の表現においても、地域社会の文化資源が取り込まれ、信仰実践の多様性が育まれた。こうして部派仏教は、単なる分裂ではなく、重層的なネットワークとして展開したのである。
大乗仏教との関係
大乗は特定部派の独占物ではなく、複数の学派的環境から生まれた運動として理解される。大衆部系の一部で菩薩理想が強調された可能性が指摘される一方、上座部系でも般若・空の議論を受容する動きがあった。つまり部派仏教は、経典編纂・論書制作・修行論の洗練という基盤を提供し、その上で新たな理想と実践が開花したのである。思想史的には、旧来の枠組みと新機運が交差する場であった。
他宗教との関係と思想的土壌
当時のインド宗教世界では、バラモン教の儀礼秩序や宇宙観、ならびに出家禁欲を掲げるジャイナ教などの諸思想が併存していた。部派仏教はこれらと対話・競合しつつ、倫理・認識論・解脱論を精緻化した。布施の倫理、非暴力、瞑想の段階論、認識の分析は、広い思想市場に開かれた議論として成熟し、僧俗双方の生活規範に浸透した。
歴史的意義
多様な伝統が共時的に緊張関係を保ちながら併存したことこそ部派仏教の核心である。分化は断絶ではなく、学習様式・律制・儀礼・美術・言語の多面的革新を誘発した。経典・律典・論書の重層的伝承は、後代アジア各地の仏教文化に継承され、翻訳・注釈・註疏の膨大な成果を生んだ。こうして形成された知のアーカイブは、今日に至るまで仏教研究の基盤であり続けている。
なお、仏教史の理解においては、政治・社会・交易の文脈を併せて読むことが不可欠である。広域帝国の統合と地方社会の自律、僧院の経済基盤、都市ネットワークの形成はすべて部派仏教の展開を規定した。歴史資料の異同や部派名の伝承差にも留意しつつ、地域的・制度的・思想的な複眼から、複数の仏教が同時に息づいた世界を描き出すことが求められる。