迫害から国教化へ|迫害から公認へ国教化への転換

迫害から国教化へ

本項はローマ帝国下のキリスト教が、市民宗教との摩擦から制度的な迫害を受け、やがて皇帝の庇護と立法により国家秩序の中核へと組み込まれる過程を概説する。多神教的な帝国社会において排他的な唯一神信仰は違和感を招き、皇帝崇拝の拒否や公的祭儀の回避が不忠視され、断続的な弾圧が生じた。他方で都市部のネットワークと救貧・互助の実践は信徒を拡大させ、3世紀の危機を背景に宗教的選好は多様化する。4世紀初頭、コンスタンティヌスの政策転換と「Edict of Milan(ミラノ勅令)」は公認を与え、さらにテオドシウス1世の「Edict of Thessalonica」により国教化が進む。このダイナミズムを「迫害から国教化へ」と呼ぶ。

ローマ帝政下の迫害の背景

ローマの宗教は慣習と公的儀礼を重視する市民宗教であり、異教受容に寛容であったが、共同体を統合する祭儀の不参加は秩序破壊とみなされた。帝国崇拝の供犠拒否、秘密集会への猜疑、パンとサーカスの秩序からの逸脱が、地方総督の裁量による摘発を誘発した。地方文書には、信仰の「固執」自体が処罰対象となりうる実務が示され、迷信とされた新宗教は経済・司法の周縁で軋轢を生んだ。

ディオクレティアヌスの大迫害

3世紀末、テトラルキア体制の秩序形成と結びついて、303年よりいわゆる大迫害が発動された。聖書の焼却、礼拝所の破壊、官職・市民権の剥奪、供犠の強制などが広域で実施され、法的・象徴的に共同体からの排除が図られた。ただし強度は地域差が大きく、エジプトや小アジアでは殉教の記憶が濃厚である一方、ガリアやブリタンニアでは緩和が見られた。311年、ガレリウスは寛容勅令を出し、信徒に公共秩序遵守の限度での信仰容認を示した。

コンスタンティヌスによる公認と制度化

312年の橋上の戦い以後、コンスタンティヌスはキリスト記号(Chi-Rho)を軍事的標章に採用し、翌313年のミラノ勅令で信仰の自由と財産返還を明文化した。司教会議の召集権を行使して325年にニカイア公会議を開催し、教義紛争(アリウス論争)を帝国秩序の問題へと引き上げ、皇帝と教会の協働(協調主義)が形成された。日曜休暇(321年)や聖職者の特権、バシリカ建立は、宗教空間の可視化と制度的支持をもたらした。

テオドシウス1世と国教化の完成

380年のテッサロニキ勅令は、ニカイア信条に準拠する「カトリック信仰」を正統として宣言し、異端と異教に対する法的抑圧を強化した。391–392年には異教祭儀の禁止が段階的に布告され、神殿は都市財や教会へ転用される。これにより宗教は私的信心の次元を越え、司法・財政・都市管理の制度に深く組み込まれた。司教は都市の名望家として貧民救済や調停に関与し、都市社会の指導層を形成する。

社会・行政の変容とネットワーク

教会組織は属州・都市制度に重ね合わされ、司教座は行政区分と連動して広がった。ディアコニアによる救貧・施療は都市の社会保障を補完し、信徒団体は葬送・相互扶助の機能を担った。巡礼地と殉教者崇敬は地域間の移動と経済を活性化させ、聖遺物のネットワークが都市間競争を生んだ。こうして宗教実践は帝国全域の連接装置として働いた。

異教世界からキリスト教文化への転換

異教の神殿は建築材の再利用やバシリカ化によって都市景観の再編に寄与し、祝祭暦は主日のリズムを中心に再調整された。他方、農村の多神教的慣習や習合は長期的に残存し、聖人崇敬や地方祭礼に編入される形で再解釈が進む。言語文化面では典籍の写本化と学校制度の接続が進み、古典修辞学は説教術へと転用され、教育と宗教の連関が強化された。

史料・考古学・方法論

『教会史』や殉教譚などの叙述史料は、共同体内部の自己理解を反映するため、行政文書・碑文・パピルス文書・貨幣や建築痕跡と対照し、地域差と時間差を丁寧に復元する必要がある。迫害の実態は一枚岩ではなく、命令と運用の乖離、都市の派閥、地方エリートの利害によって振幅した。国教化もまた、上からの法令と下からの習俗の相互作用として捉えるべきである。

用語の整理

  • ミラノ勅令(Edict of Milan):信仰の自由と財産返還の布告で、公認の画期。
  • ニカイア公会議:皇帝召集の普遍会議で、教義と秩序の整合を図る。
  • テッサロニキ勅令(Edict of Thessalonica):正統信仰の宣言により国教化を推進。
  • 協調主義:皇帝と教会が秩序維持のために協働する体制。
  • 殉教者崇敬:都市間ネットワークと政治文化に影響を与えた宗教実践。
  • 異端:正統からの逸脱として規定され、法と教会規律の対象となる。
  • 異教祭儀の禁止:宗教政策の転換点で、都市空間の再編を伴う。
  • バシリカ建築:司法・商取引空間から礼拝空間への転用と新造。

主要年代の整理

  1. 303–311年:大迫害。聖書焼却・礼拝所破壊・供犠強制など。
  2. 311年:寛容勅令。秩序遵守の限度で信仰容認。
  3. 313年:Edict of Milan。信教の自由と財産返還。
  4. 321年:主日休暇の制度化。社会リズムの変容。
  5. 325年:ニカイア公会議。皇帝と教会の協働が制度化。
  6. 380年:Edict of Thessalonica。正統信仰の宣言。
  7. 391–392年:異教祭儀の禁止。神殿の転用進む。

本テーマの理解には、教会史と帝国法、都市考古学、経済・社会史を横断する視点が欠かせない。公認と国教化は一挙の断絶ではなく、長期にわたる折衝と再解釈の累積であり、宗教・権力・都市社会の三者関係が「教会」制度の成熟を促した。人物史的には「イエス」観の多様化や「キリスト」信仰の教義形成、「新約聖書」解釈の発展が、制度史と相互に作用し、後の「東ローマ帝国」に連なる宗教国家的枠組みを準備した。