蝦夷地|北方の広大な大地とアイヌの歴史

蝦夷地

蝦夷地とは、近代以前の日本において、主に現在の北海道、本州北部、樺太(サハリン)、千島列島を含む広範な北方の地域を指した呼称である。中世までは「えぞがしま」などとも呼ばれ、和人が居住する「和人地」に対して、アイヌ民族が居住する地域を指す概念として定着した。江戸時代には松前藩がその統治や交易の拠点を置いたが、北方からのロシアの進出に伴い、幕府が直接統治を行うなど政治的重要性も増大した。1869年の明治政府による改称を経て、現在はその大部分が「北海道」として知られている。

名称と地理的範囲

蝦夷地という名称は、古くから東北地方から北方に住む人々を「蝦夷(えみし・えぞ)」と呼んだことに由来する。中世以前の認識では、その範囲は必ずしも明確ではなかったが、近世以降は明確に「和人地」と「蝦夷地」に区分されるようになった。和人地は現在の渡島半島南端の一部を指し、それ以外の北海道全域、さらには北方の樺太や千島列島を含めて広義の蝦夷地とされた。また、地理的な位置関係から、北海道島を「大蝦夷」、樺太を「北蝦夷」、千島列島を「東蝦夷」と呼び分けることもあった。

中世から近世への変遷

鎌倉時代から室町時代にかけて、津軽地方の安東氏が蝦夷沙汰職として北方貿易を統括していたが、やがて渡島半島南部に進出した和人たちが館(たて)を築き、定着を始めた。戦国時代には蠣崎氏が台頭し、豊臣秀吉や徳川家康から蝦夷地の支配権と交易独占権を認められた。これにより、蠣崎氏は松前氏と改姓して松前藩となり、和人地を拠点にアイヌとの交易を管理する体制を確立した。当時の蝦夷地は、米が収穫できない土地であったため、松前藩は領民に俸禄として土地を与える代わりに、特定の場所での交易権を与える「商場知行制」を敷いた。

アイヌ民族との関係と交易体制

蝦夷地の先住民であるアイヌ民族は、狩猟・漁穫や採集を主な生業とし、和人との間でサケやコンブ、毛皮などを提供する代わりに、米、漆器、鉄製品などを入手する交易を行っていた。しかし、近世が進むにつれて松前藩による支配が強化され、交易条件が悪化したことで、アイヌの不満が爆発した。1669年のシャクシャインの戦いや、1789年のクナシリ・メナシの戦いなどの組織的な抵抗運動が起こったが、最終的には松前藩や幕府の武士によって鎮圧された。その後、商人が交易を請け負う「場所請負制」が一般化し、アイヌの人々は次第に過酷な労働環境に置かれることとなった。

区分 主な居住者 経済活動 統治形態
和人地 和人(松前藩士・平民) 農業・商業・漁業 松前藩による直接支配
口蝦夷 アイヌ・和人(一時滞在) 交易・沿岸漁業 商場知行制・場所請負制
奥蝦夷 アイヌ 狩猟・採集・交易 アイヌ首長による自治を一部残す

江戸幕府の直轄支配

江戸時代後期、北方の「赤人(ロシア人)」による南下政策が現実的な脅威となると、幕府は北方防衛の観点から蝦夷地の重要性を再認識した。1799年に東蝦夷地を、1807年には西蝦夷地を含めた全島を公議御料(幕府直轄地)とし、箱館奉行を置いて統治を開始した。これは、対ロシア警備の強化と、アイヌに対する懐柔策、そして資源開発を目的としたものである。その後、一旦は松前藩に返還されたものの、1855年の日露通好条約締結後に再び幕府直轄となり、近代的な国境意識に基づいた管理が進められた。

近代化と北海道の成立

1868年の明治維新により新政府が発足すると、蝦夷地の扱いは大きく変化した。戊辰戦争の最終局面である箱館戦争を経て、旧幕府軍が降伏した後の1869年、政府は「開拓使」を設置して本格的な経営に乗り出した。同年8月、松浦武四郎らの提案に基づき、蝦夷地は「北海道」と改称され、それまでの11国86郡の行政区分が定められた。これにより、形式的な交易対象としての土地から、日本国内の正式な行政区画としての開発対象へと移行し、屯田兵による開拓や移民の受け入れが急速に進展することとなった。

歴史的事件の年表

  • 1457年:コシャマインの戦い(アイヌと和人の最初の大規模な衝突)
  • 1593年:豊臣秀吉が蠣崎慶広に蝦夷地優先権を公認
  • 1669年:シャクシャインの戦い(アイヌによる最大規模の蜂起)
  • 1789年:クナシリ・メナシの戦い(東蝦夷地でのアイヌの抵抗)
  • 1792年:ロシア使節ラクスマンが根室に来航
  • 1869年:蝦夷地から北海道への改称と開拓使の設置

北方の象徴としての変遷

蝦夷地は、単なる地理的名称を超えて、日本列島の北の境界としての歴史的役割を果たしてきた。かつては異文化が共生・衝突するフロンティアであったが、国家の近代化過程において資源供給地や国防の要衝へと変貌を遂げた。その過程で失われたアイヌ独自の文化や歴史を再評価する動きは現代においても重要であり、蝦夷地の歴史を知ることは多文化共生のあり方を考える上で不可欠な要素となっている。