英印円卓会議
英印円卓会議とは、イギリス本国政府がロンドンで開催したインド憲政改革会議であり、1930年から1932年にかけて3回にわたって開かれた会議である。イギリスとインドの代表が「円卓」を囲んで対等に議論するという建前のもと、インドの将来の統治制度や自治拡大のあり方、諸宗教・諸共同体の代表権などが討議されたが、インド側の民族運動勢力とイギリス政府・各共同体勢力の利害が鋭く対立し、決定的な妥協には至らなかった。それでも英印円卓会議での議論は、やがてインド統治法1935年の構想に結びつき、インド独立への中間段階として位置づけられる。
背景:第一次世界大戦後のインド憲政改革と民族運動
第一次世界大戦後、インドではモンタギュー=チェルムズフォード改革に基づく1919年インド統治法が施行され、州レベルでの二元統治が導入された。しかし実際にはイギリス総督と官僚が依然として決定権を握り、インド人政治家の権限は限定的であった。この不満を背景に、インド国民会議を中心とした民族運動は急速に高揚し、サティヤーグラハや非暴力不服従の運動が全国的に展開された。
同時期には、イスラーム教徒の間でカリフ制の擁護を掲げるヒラーファト運動が広がり、ヒンドゥーとムスリムが共同で英領支配に抵抗する局面もみられた。一方で、宗教・カースト・地域ごとの代表権をめぐる対立、いわゆるコミュナリズムも深刻化し、統一された「インド民族」の名で発言することは容易ではなくなっていた。
イギリス政府は、1927年に派遣したサイモン委員会の報告を受け、インドの憲政制度の再設計を図ろうとしたが、委員にインド人が含まれていなかったため激しい反発を招いた。この反発と民族運動の高揚を抑えつつ制度改革を進めるために構想された場が英印円卓会議であった。
第1回英印円卓会議:インド国民会議不参加の中での討議
第1回英印円卓会議は1930年末から1931年初頭にかけてロンドンのセント・ジェームズ宮殿で開催された。イギリス側からはラムゼイ=マクドナルド首相をはじめとする政界要人が出席し、インド側からは藩王国の君主・貴族、商工業者、ムスリム、シク教徒、不可触民代表など、さまざまな共同体の代表が招かれた。
- 藩王国代表は、自らの特権と自治を維持したうえでインド連邦に参加することを模索した。
- ムスリム代表は、ヒンドゥー多数のもとでの不利益を回避するため、議会における優越的な議席配分や別個選挙を主張した。
- 不可触民代表は、カースト制度の克服と政治的保障を求め、独自の代表権を要求した。
しかし、最も大きな民族運動勢力であったインド国民会議は、第1回会議をボイコットした。当時、インド国内ではマハトマ・ガンディーの指導する非暴力不服従運動が展開され、ガンディー自身も投獄されていたためである。このため、第1回会議はインド全体を代表する会議とは言いがたく、連邦構想や自治拡大の原則について大枠を議論したものの、実質的な合意には到達しなかった。
ガンディー=アーウィン協定と第2回英印円卓会議
第1回会議後、イギリス政府は民族運動との妥協を模索し、1931年に副王アーウィンとガンディーとの間でガンディー=アーウィン協定が結ばれた。この協定により多くの政治犯が釈放され、塩税抵抗運動などの一時停止と引き換えに、インド国民会議が第2回英印円卓会議に参加する道が開かれた。
第2回会議は1931年秋に開催され、ガンディーはインド国民会議を代表するただ一人の正式代表としてロンドンに赴いた。彼は、インド全体を単一の民族国家として扱うべきだと主張し、広範な自治権、実質的な責任内閣制、人権尊重などを求めた。一方でムスリム・シク教徒・藩王国・不可触民など各共同体の代表は、自らの利益を守るため別個選挙や優遇議席などの制度的保障を要求し、ガンディーの主張と鋭く対立した。
この対立は、インド社会内部の複雑な利害関係を浮き彫りにするとともに、誰が「インド」を代表するのかという根本問題を提起した。ガンディーは不可触民も含めた単一選挙民団による民主政治を望んだが、不可触民代表B・R・アンベードカルは独自の選挙区確保を求め、会議は合意の道を見いだせなかった。
宗派・共同体問題と代表権をめぐる争点
英印円卓会議の中心的争点は、ヒンドゥー・ムスリム・シク教徒・不可触民・藩王国など多様な共同体にどのように政治的代表権を割り当てるかという問題であった。イギリスは、宗教・共同体ごとに別個選挙を認めることで少数派保護とされる仕組みを維持しようとし、これが結果的にインド社会の分断を固定化するとの批判を招いた。
- ムスリムは、人口比以上の議席配分と重要分野での拒否権的地位を要求した。
- 不可触民は、カースト上位者から独立した選挙区を求め、自立した政治主体としての承認を主張した。
- 藩王国は、イギリス王室との特別な関係を維持しつつ、将来のインド連邦における対等な地位を志向した。
これらの要求は、イギリスの分割統治政策とも結びつき、統一的な民族運動の形成を難しくした。のちに1932年にはマクドナルド首相による「コミュナル・アウォード」が出され、不可触民を含む諸共同体ごとに別個選挙を認める方針が示されたが、これはガンディーの断固たる反対を招き、プーナ協定へとつながっていく。
第3回英印円卓会議とインド統治法1935年への道
第3回英印円卓会議は1932年末に開催されたが、その時点ではインド国内で再び非協力運動が激化し、多くの国民会議指導者が投獄されていたため、インド国民会議は参加しなかった。会議は主として技術的な制度設計を検討する場となり、インド連邦構想や州自治の枠組みなどの原則が整理された。
会議の議論を踏まえ、イギリス議会は最終的にインド統治法1935年を制定した。この法律は、
- 州レベルでの責任内閣制の拡大
- インド連邦の創設構想(ただし藩王国の不参加により実現せず)
- 選挙権の拡大と複雑な共同体別代表制
などを定め、一定の自治拡大を認めた。しかしイギリス総督・副王の権限は依然として強く、重要事項には拒否権が残されていたため、民族運動勢力からは不十分な妥協案とみなされた。
インド民族運動史における英印円卓会議の意義
英印円卓会議は、イギリスとインドの支配・被支配の関係が、裸の暴力による支配から交渉と制度設計を通じた支配へと移行していく過程を象徴する出来事である。同時に、それはヒンドゥー・ムスリム・カースト・藩王国など、インド内部の複雑な利害対立が一気に表面化した場でもあった。ガンディーやネルーら国民会議派、ムスリム勢力、不可触民代表、さらにはインド共産党など多様な政治勢力が、それぞれ異なる将来像を構想していたことがうかがえる。
結果として英印円卓会議は、インド完全独立(プールナ・スワラージ)を即座に実現する場とはなりえなかったが、その討議を通じて自治拡大と連邦制の構想が具体化し、インド統治法1935年というかたちで制度化された。この制度のもとで培われた議会政治の経験は、やがて独立インドの民主主義の基盤となっていく。さらに、共同体別代表制をめぐる対立や、宗派対立の激化は、のちのインド・パキスタン分離独立、宗派衝突の伏線として理解されており、英印円卓会議はインド近現代史を読み解くうえで欠かせない節点となっている。
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