聖地管理権|聖地を巡る列強の対立

聖地管理権

聖地管理権とは、19世紀のオスマン帝国支配下にあったパレスチナのエルサレムやベツレヘムなど、キリスト教の聖地に対する保護・修復・礼拝の順序や鍵の管理などをめぐる権利を意味する概念である。この権利をどの教派・どの国家が握るかをめぐり、カトリックを後ろ盾とするフランスと、正教会を保護する立場のロシア帝国が激しく対立し、その外交的緊張はやがてクリミア戦争へとつながった。宗教儀礼の秩序をめぐる争いでありながら、実際には列強の勢力拡大と「東方問題」に直結する国際政治上の重大問題であった。

オスマン帝国と聖地の宗教構造

パレスチナを支配していたオスマン帝国は、イスラーム国家でありつつも、「ミッレト制」と呼ばれる宗教共同体ごとの自治を認める仕組みのもとで、キリスト教諸教派の礼拝や聖地利用を慣行として容認していた。エルサレムの聖墳墓教会やベツレヘムの生誕教会などの聖地では、カトリック教会とギリシア正教会、さらにアルメニア教会など複数の教派が共存し、祭礼の時間配分、建物修復の主導権、入口の鍵の管理などを細かく取り決めてきた。この複雑な慣行をめぐってしばしば摩擦が生じ、その調停にオスマン政府が当たる構図が成立していた。

ロシアの保護権主張と聖地管理権

18世紀の小カイナルジャ条約以来、ロシアはオスマン帝国内の正教徒に対する保護権を主張し、それを外交上の武器として用いてきた。19世紀に入ると、ニコライ1世は自らを「全ロシアと正教徒の保護者」と位置づけ、エルサレムやベツレヘムにおける正教会の地位向上を強く求めた。とくに、聖墳墓教会や生誕教会の修復や鍵の管理を正教会の手に戻させることは、ロシアの威信と南下政策を象徴する目標とみなされたのである。そのため聖地管理権は、単なる宗教儀礼の問題ではなく、ロシアの対外政策と結びついた戦略的要求として浮上した。

フランスとカトリックの権利回復要求

これに対し、クーデタで成立したナポレオン3世のフランス第二帝政は、国内基盤を固めるためカトリック勢力との結びつきを重視し、カトリック教会の聖地における優越的地位を取り戻すことを外交課題とした。フランスは歴史的にオスマン帝国からカトリック保護権を得ていたと主張し、聖地におけるラテン教会の権利確認と、教会の扉や星印の設置など象徴的な権利を要求した。こうして、聖地管理権はロシア正教会とフランスが支援するカトリック教会との間で鋭く対立し、両国がオスマン政府を取り合う外交戦の焦点となった。

オスマン帝国の板挟みと列強外交

オスマン政府は、財政難と軍事的劣勢の中で、列強からの圧力を利用しつつ均衡を保とうとしていた。最初はフランスの要求を受け入れて、聖地での象徴的優位をカトリック側に認める勅令を出したが、これにロシアが強く反発したため、今度はロシアにも配慮する再調整を試みた。このような優柔不断な対応は、かえって両大国の不信と怒りを招き、聖地に関する勅書や証書をめぐる解釈争いが激化した。オスマン帝国は「バルカン半島の病人」と称されるほど衰退しており、その領内の宗教問題が列強によって国際政治問題として利用されやすい状況にあった。

クリミア戦争への発展

聖地管理権をめぐる対立が決定的になったのは、ロシアが自国の要求が認められないことに業を煮やし、オスマン帝国に対して正教徒保護の正式な承認を迫ったときである。交渉が決裂すると、ロシアは公然とオスマン領のモルダヴィア・ワラキアに軍を進め、圧力を強めた。これに対して、フランスとイギリスはオスマン帝国支持の立場からロシアを牽制し、やがて黒海の制海権や帝国の存続をめぐる戦争へと発展した。この戦争がクリミア戦争であり、表向きの契機は聖地をめぐる宗教的紛争であったが、その背後にはロシアの南下政策と地中海・中東をめぐる列強の利害対立が横たわっていた。

宗教問題と国際政治の関係

聖地管理権の問題は、宗教儀礼の細部に関する争いから出発しながらも、実際には大国が自国の権益拡大を正当化する名目として宗教を利用した典型例といえる。フランスにとってはカトリック保守層の支持獲得、ロシアにとっては正教徒保護を口実とした南方進出の強化が掛かっており、オスマン帝国はそのはざまで主権を守ろうとした。結果として、聖地の鍵や礼拝の順番といった象徴的な問題が、欧州全体の勢力均衡を揺るがす戦争の引き金となったのである。この経験は、宗教問題がしばしば民族運動や大国間対立と結びつき、19世紀以降の国際政治に長期的な影響を与えることを示す事例として位置づけられている。