織田作之助
織田作之助は、昭和初期から戦後にかけて活躍した大阪出身の小説家であり、太宰治や坂口安吾らと共に「無頼派(新戯作派)」の旗手として知られる。代表作『夫婦善哉』では、大阪の庶民の生活や風俗を独特の饒舌な文体で描き、没後も「オダサク」の愛称で多くの読者に親しまれている。33歳という若さでこの世を去ったが、その短くも濃密な生涯と作品群は、日本の近代文学におけるリアリズムのあり方に大きな一石を投じた。現在も法善寺境内には彼の文学碑が建立されており、その精神は大阪の文化として根強く受け継がれている。
大阪の風土と文学的出発
1913年(大正2年)、織田作之助は現在の大阪市天王寺区にある仕出し屋「織田亀」の長男として誕生した。幼少期から聡明であった彼は、大阪府立高津中学校を経て第三高等学校(三高)へと進学し、優秀な成績を収めていたが、卒業試験中に喀血したことをきっかけに挫折を経験する。この病の影と大学中退という挫折感は、その後の彼の作品に共通する「デカダンス」や「虚無感」の背景となった。その後、フランスの文豪であるスタンダールの作品に出会い、特に『赤と黒』に強い衝撃を受けたことで小説家への道を志すようになる。1938年には処女作となる「ひとりすまう」を発表し、文壇への足がかりを築いた。彼の初期の文体は、私小説的なセンチメンタリズムを排し、冷徹な観察眼と構成力を重視するものであった。
出世作『夫婦善哉』と庶民へのまなざし
1940年(昭和15年)、織田作之助は代表作となる『夫婦善哉』を発表し、一躍人気作家の仲間入りを果たした。この作品は、しっかり者の芸者・蝶子と、優柔不断で頼りない問屋の放蕩息子・柳吉の腐れ縁を描いたものであり、大阪の街を転々としながらも共に生きる二人の姿が活写されている。物語の舞台となる千日前や法善寺横丁、そして実在のぜんざい屋「夫婦善哉」といった地名は、作品に圧倒的なリアリティを与えた。彼は、単なる風景描写にとどまらず、食べ物の匂いや街の雑踏、そしてそこに生きる人々のたくましさを、体言止めを多用したスピード感あふれる文体で表現したのである。この時期の彼の作品は、当時の国家主義的な風潮とは一線を画す、徹底した個人主義と庶民への愛に満ちていた。
戦後の混乱と「無頼派」としての闘争
第二次世界大戦、すなわち太平洋戦争が終結すると、織田作之助は活動の場を東京へと移し、新しい時代の文壇において旋風を巻き起こした。彼は、太宰治や坂口安吾らと交流を深め、既存の道徳や権威を否定し、人間の本音と堕落を肯定する「無頼派」としての立場を鮮明にした。特に評論『可能性の文学』においては、私小説的な自己告白に終始する日本の文壇を批判し、物語性(ストーリーテリング)の重要性を説くなど、旺盛な執筆活動を展開した。また、戦後の混乱した社会を鋭く描いた『世相』や、死後の世界をテーマにした『死神』など、ジャンルを問わず次々と作品を発表した。彼は、芥川賞の候補に挙がるなど名実ともに流行作家となったが、その激しい生き方は着実に彼の身体を蝕んでいった。
早すぎる死と文学的遺産
多忙を極める執筆生活の中で、持病の結核が悪化し、1947年1月、織田作之助は東京の病院にて33歳の若さで病没した。彼の死は、戦後文学の大きな損失として受け止められ、共に戦った太宰治らは深い哀悼の意を表した。没後、彼の文学を顕彰するために「織田作之助賞」が創設され、新進気鋭の作家を輩出し続けている。また、大阪の難波にある自由軒には、彼が愛したライスカレーにまつわる直筆のサインが残されており、今なお「オダサク」の存在を身近に感じることができる。彼の文学は、単なる地方文学の枠を超え、人間の弱さと強さを同時に描き出す普遍的な魅力を備えており、現代の読者にも深い共感を与え続けている。彼の遺した「可能性の文学」という言葉は、今もなお物語の力を信じる者たちへの指針となっている。
自由軒のライスカレーと逸話
織田作之助は、食文化への造詣が深く、作品の中にも多くの大阪グルメを登場させている。特に難波の老舗洋食店「自由軒」のライスカレーを好み、「トラは死んで皮を遺し、織田作は死んでカレーを遺す」という言葉を残したとされる。このカレーは、ご飯とルーをあらかじめ混ぜ合わせ、その上に生卵を落とした独特のスタイルであり、彼の飾らない性格と大阪っ子らしい合理性を象徴する逸話として語り継がれている。彼の死後、その看板娘や店の雰囲気、そして味そのものが、彼の作品世界を補完する重要な文化資源として大切に守られている。
織田作之助の主な年譜
| 年(西暦) | 主な出来事・作品 |
|---|---|
| 1913年 | 大阪市天王寺区に生まれる。 |
| 1931年 | 第三高等学校に入学。在学中に喀血。 |
| 1940年 | 『夫婦善哉』を発表し、高い評価を得る。 |
| 1946年 | 『世相』『土曜夫人』などを発表。太宰治らと座談会を行う。 |
| 1947年 | 東京にて喀血し急逝。享年33歳。 |
文学的特徴と文体の革新
- カタログ的な列挙法:大阪の地名、店名、食べ物を畳み掛けるように並べる手法。
- 体言止めの多用:文章にリズムとスピード感を与え、都会的な乾いた感性を表現。
- 非・私小説的態度:個人の内面告白よりも、状況や行動の描写を重視。
- 徹底した大阪弁の駆使:方言を文学的な表現へと昇華させ、リアリティを追求。
織田作之助の文学的価値は、戦中・戦後という極限状態において、どこまでも「生」への執着と肯定を失わなかった点にある。大阪という都市が持つバイタリティを自身の文体に変換し、虚飾を剥ぎ取った先に現れる人間の真実を追い求めた彼の姿勢は、今なお色褪せることがない。彼は、自らの命を削りながら言葉を紡ぎ、戦後日本の精神的荒廃を癒やそうとした。その作品は、単なる歴史の記録ではなく、今を生きる私たちに向けられた、力強い人間賛歌であると言えるだろう。彼の死は早すぎたが、その駆け抜けた足跡は、日本の空に鮮やかな航跡を描き続けている。