石舞台|巨石が語る飛鳥時代の権力象徴

石舞台古墳

石舞台古墳は、奈良県高市郡明日香村に所在する、日本最大級の規模を誇る方墳であり、飛鳥時代における巨石土木技術の精髄を示す代表的な遺跡である。

墳丘の構造と石室の露出

石舞台は本来、一辺約50メートルから55メートルの方墳であったが、盛土が失われたことにより、巨大な横穴式石室が外部に露出した特異な外観を呈している。石室は全長約19メートル、玄室の長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.8メートルという驚異的な規模を誇り、総重量は約2,300トンに達すると推定される。特に天井石には、北側が約64トン、南側が約77トンの巨大な花崗岩が用いられており、当時の古墳文化における運搬および架構技術の高さが窺える。

被葬者と蘇我馬子の関連

石舞台の被葬者については、古くから飛鳥時代の有力な権力者であった蘇我馬子とする説が有力視されている。その根拠として、以下の点が挙げられる。

  • 『日本書紀』において馬子が「桃源の家」を営み、その庭に池を掘ったことから「嶋大臣」と呼ばれた記述があり、付近に「島庄」の地名が残ること。
  • 古墳の築造年代が7世紀初頭と推定され、馬子の没年である626年と整合すること。
  • 当時の最大級の権力者に相応しい巨大古墳であること。
  • 封土が剥がされた理由として、後の蘇我氏失脚に伴う破壊や改変の可能性が指摘されていること。

石室内部の特徴と副葬品

石舞台の石室は、花崗岩の自然石を積み上げた強固な構造を持っており、排水のための溝が床面を囲むように配置されている。かつては凝灰岩製の家形石棺が安置されていたと考えられており、発掘調査では石棺の破片や、金銅製の耳飾り、須恵器などの破片が検出されている。これらの遺物は、被葬者が極めて高い社会的地位にあったことを裏付けており、考古学的にも極めて重要な価値を有している。

飛鳥時代の政治的背景

石舞台が築造された時期は、聖徳太子(厩戸皇子)と蘇我馬子が協調して国家体制の整備を進めていた時代にあたる。この時期、仏教の受容や遣隋使の派遣を通じて大陸の進んだ文化や技術が導入されており、古墳の巨大化はその権威の象徴でもあった。しかし、大化の改新以降は薄葬令が発布されるなど、大規模な古墳築造は衰退に向かうこととなり、本古墳は巨石墳丘の終焉を象徴する存在ともいえる。

周辺の遺跡と景観

石舞台の周辺には、馬子の邸宅跡とされる「島庄遺跡」や、飛鳥の政治の中心であった飛鳥板蓋宮跡などが点在している。これら一連の遺跡群は、飛鳥が日本の首都として機能していた時代の歴史的景観を形成しており、世界遺産登録を目指す「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の重要な構成要素となっている。春には周囲に菜の花が咲き誇り、巨石のシルエットと調和した美しい風景が多くの観光客を魅了している。

発掘調査と保存の歴史

石舞台は1933年から1935年にかけて、京都帝国大学の濱田耕作らによって本格的な発掘調査が行われた。この調査により、古墳の正確な規模や石室の構造が解明され、その後の保存整備へと繋がった。1952年には国の特別史跡に指定され、日本を代表する古代遺跡として厳重に管理されている。また、石室の底部に溜まる水の排水対策や、巨石の崩落防止など、現代に至るまで高度な保存修復技術が投入されている。

巨石運搬技術の謎

石舞台に使用された巨石は、数キロメートル離れた多武峰付近から運ばれたと考えられている。当時の人々がどのようにして数十トンもの岩を移動させたかについては、「修羅」と呼ばれる木製のソリを用いた説が一般的である。コロを敷いた上に修羅を載せ、多数の人員が綱を引くことで長距離を移動させたと推測される。また、石を高く積み上げる際には、土のスロープを築いて引き上げ、最後に土を取り除く「土山築造法」が用いられたとされ、当時の土木工学の知恵が結集されている。

石舞台の名前の由来

石舞台という名称は、石室の天井石が平坦であり、あたかも舞台のように見えることから江戸時代には既に定着していたとされる。伝説では、この地で狐が美人に化けて石の上で踊った、あるいは旅芸人が石の上で演舞を行ったという逸話が残されているが、実際には学術的な名称ではなく、その形状に由来する俗称がそのまま一般化したものである。

以上の通り、石舞台は単なる古代の墓ではなく、飛鳥時代の政治、技術、文化が重層的に反映された日本の歴史を象徴するモニュメントである。