石津ヶ丘古墳:巨大な前方後円墳の構造と歴史的意義
石津ヶ丘古墳は、大阪府堺市西区石津ヶ丘に位置する日本で第3位の規模を誇る前方後円墳であり、一般的には履中天皇陵として知られている百舌鳥古墳群を構成する主要な古墳の一つである。
石津ヶ丘古墳の概要と規模
石津ヶ丘古墳は、墳丘長が約365メートルに及ぶ巨大な前方後円墳であり、世界文化遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」の中核を成す存在である。墳丘は3段に築成されており、周囲には二重の堀(周濠)が巡らされていたことが調査により判明している。現在は宮内庁によって第17代履中天皇の陵墓「百舌鳥耳原南陵」として管理されており、学術的な発掘調査には一定の制約があるものの、その威容は古墳時代中期の王権の強大さを現代に伝えている。石津ヶ丘古墳の平面形状は、後円部が前方部より高く設計されており、これは中期古墳の典型的な特徴である。
百舌鳥古墳群における位置付け
石津ヶ丘古墳は、同じ堺市内に位置する大仙陵古墳(仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳(応神天皇陵)と並び、日本を代表する巨大古墳の一つに数えられる。百舌鳥古墳群の南西部に位置し、北側に位置する大仙陵古墳よりも築造年代が古い可能性が指摘されている。石津ヶ丘古墳の周辺には、陪塚(ばいちょう)と呼ばれる小型の古墳が点在しており、本墳を中心とした強固な秩序形成がなされていたことが伺える。この地域の古墳時代における政治的中心地としての役割は極めて大きく、当時のヤマト王権の動向を考察する上で欠かせない遺跡である。
築造時期と考古学的特徴
石津ヶ丘古墳の築造時期は、出土した円筒埴輪の形式などの検討から、5世紀前半(古墳時代中期初頭)と考えられている。この時期は、それまでの前期古墳に比べて墳丘が飛躍的に巨大化した時代であり、石津ヶ丘古墳はその先駆け的な存在といえる。墳丘の表面には葺石が敷き詰められ、テラス部分には膨大な数の埴輪が並べられていた。また、近年の航空レーザー測量や周濠の調査によれば、石津ヶ丘古墳の造出し(つくりだし)と呼ばれる張り出し部分からは、祭祀に用いられたとされる土器類も確認されている。これらの遺構は、当時の葬送儀礼が極めて精緻かつ大規模に行われていたことを示唆している。
石津ヶ丘古墳と被葬者の比定
石津ヶ丘古墳は、記紀の伝承に基づき宮内庁によって履中天皇の陵墓に指定されている。履中天皇は仁徳天皇の第一皇子であり、その治世は短期間であったとされるが、石津ヶ丘古墳の圧倒的な規模は、当時の天皇が保持していた強大な権力を如実に物語っている。しかし、考古学的な知見からは、実際の築造順序と記紀の系譜に齟齬が生じる可能性も議論されており、被葬者論争は依然として決着を見ていない。それにもかかわらず、石津ヶ丘古墳が古代日本の王権構造を解明するための鍵となる最重要遺産であることに変わりはない。また、前方後円墳という形式が完成の極致に達した時期の作例として、日本建築史や考古学の観点からも高く評価されている。
保存と世界遺産への登録
- 石津ヶ丘古墳は、2019年に「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」の構成資産としてユネスコの世界文化遺産に登録された。
- 都市化が進む堺市内にありながら、広大な緑地を伴う古墳の景観は維持されており、地域の歴史的シンボルとなっている。
- 宮内庁による管理下にあるため墳丘内への立ち入りは禁止されているが、拝所からはその壮大な前方部を望むことができる。
- 石津ヶ丘古墳の保全活動は、地元の自治体やボランティア団体によって支えられており、歴史教育の場としても活用されている。
周辺の陪塚と関連遺構
石津ヶ丘古墳の周囲には、七観山古墳(現在は消滅)など複数の陪塚が存在していた。これらの陪塚からは、当時の高度な金属加工技術を示す鉄製武器や武具、銅鏡などが出土しており、石津ヶ丘古墳を中心とした被葬者集団の軍事力や経済力を裏付けている。また、石津ヶ丘古墳の濠の外側では、土師器の製作に関連する遺構も見つかっており、古墳築造を支えた技術者集団の居住実態についても研究が進められている。これらの補足的な発見は、石津ヶ丘古墳単体の価値だけでなく、当時の社会システム全体を理解する上で極めて重要である。